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Collection詩集 T         



中塚鞠子
中塚鞠子


















































































詩集 
約束の地

中塚鞠子
思潮社 200710

だれもが深くもっている
あの懐かしい
不覚にも疼く
ひとつの芯 湿った記憶  (「隠沼
こもりぬ」より)



 

  出ていく

 笑い声がする
 ぞろぞろと列をつくって
 毛虫も山羊も蛇もありんこも
 湯飲み茶碗も鏡台も柱時計も写真立ても
 ぼやけた黄色い長いものについて歩いていく
 みんなわたしの見たことのないものばかりだが
 みんな知り合いの気もする
 沈んじまうんじゃしょうがないねー
 絵描きさんに新しい村を描いてもらおうよ
 暗くならないうちに帰ってくるんだよ
 とうもろこし畑のおばあさんの優しい声が
 とおく とおくなって
 峠を越えた





  眠る

 おばあさまが
 眠っていらっしゃる部屋の
 裏窓に面した崖からは
 じくじく水が滲みだし
 びしょびしょ流れ落ちる
 崖の途中に芽を出した松の木は
 おばあさまが眠り続けていらっしゃるあいだに
 大きく育って裏窓をすっかり覆ってしまっている
 おばあさまはときどきお目覚めになると
 動かない身体を震わせて
 マダ ネムレテイナインダネ
 と おっしゃる
 やがて おばあさまの
 腿も腕も腹もぶくぶく膨れて
 触ると水が滲みだしてくる
 あたりはじとじと濡れてくる
 布団を通し 畳を通し 床を通し
 水がおばあさまの身体から流れ出るのか
 崖の水がおばあさまに浸み込んでいくのか
 わたしにはわからない

 水嵩はどんどん増して
 庭を満たし 部屋を満たし
 家を満たし
 すべてすっぽり水の中だ
 わたしのおばあさまは
 水の底でいまでも静かに眠っていらっしゃる





  合図

 
明けがた
 濡れた青い石がひとつ足に触れた
 昼さがり
 眼鏡ケースから砂がこぼれた
 とっぷり暮れると
 小さなドジョウが二匹
 座敷机の上で跳ねていた
 何かが起きている
 確実に何事かが進んでいる

 とにかく
 出かけねばならない
 何かの合図に違いない
 急いで発たないと
 そう思いながら
 本当にわたしが出かけねばならないのか
 どこへ出かければいいのか
 水の村から帰ってきた日のことを
 思い出そうとしてみるが
 昨日のことのようでもあり
 遠い記憶のようでもあり
 滲んだインクのように
 ぼんやりしている
 水の匂いがあたりに満ちてくる

 たしか
 そこが棲家だった
 生を永遠に孕みながら
 いっきに沈黙した村
 水を抱く闇の
 恐怖とやすらぎ
 たしかに そこは
 故里と名づけられていたところ


   

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