◇お断り◇表記できない漢字は別の漢字に置き換え、また、ルビは()で表示しています

   

Collection詩集 T        


細見和之
細見和之


















































































詩集 
ホッチキス

細見和之
書肆山田 20077

ホッチキス売りの少年… 歩むべき道を示すホッチキス占い…
ありとあらゆる取り返しのつかないことどもを束ねつづける伝説の
ホッチキス芸人…(帯文より)



 

  増殖するホッチキス

  絶え間なくホッチキスが増殖している、との噂が流れた。だが、
 その噂よりも遥かに迅速に、ホッチキスは着実な増殖を続けていた。
 まがい物のホッチキスが多数出まわっている、と深刻に警鐘を鳴ら
 す者も現われた。「そのホッチキスは偽物だ!」
――そう指弾され
 ると、ひとびとは自らの恥部を隠すように、手元のホッチキスを他
 人の目から遠ざけようとしたものだ。

  けれども、いったい誰が本物のホッチキスと偽物のホッチキスを
 区別することができるだろう? 本物のホッチキスを求めて遠く北
 に向かって旅に出た少年の物語は、いまではあまりに牧歌的に響く。
 < ホッチキスはホッチキスであるかぎり偽物だ >というあの箴言こ
 そが、私たちの時代にはふさわしい。いずれにしろ、すでに私たち
 は片時もホッチキスなしには暮らせないのだ。





  大東亜共栄圏の嘘つき

  現在、「ホッチキス」が普通名詞として通用するのは、日本、朝鮮
 半島、台湾のみである。





  ホッチキスの兄弟たち


  ひとりの現象学者が本質直感する森の木立ちのなか、ホッチキス
 の兄弟が列をなしてしずしずと坂道を登ってゆく。それぞれが引き
 ずっている小さなバケツには、「歴史」がぎっしり詰まっている。
 もちろん、一個のホッチキス自体が歴史だが、およそ歴史とはいつ
 もその背後に歴史の小さなバケツをひとつ引きずっているものなの
 である。いや、いま引きずっているというその行為そのものがすで
 にして「歴史」なのである。

  この歴史はしかし、つねに忘却の淵にさらされている。そもそも
 誰がホッチキスの歴史などわざわざ記憶しようとするだろう。だか
 らこそ、ホッチキスの兄のうしろには、間髪をおかず、ホッチキス
 の弟が続くのだ。そして、その弟の歴史を記憶するために、第二の
 弟が続き、その尻のバケツにほとんど額を押し当てるようにして第
 三の弟が続く
――。この連鎖は果てしも知れず、ホッチキスの兄弟
 たちの、それ自体暗鬱なる歴史を形づくってきたのである。

  彼らの密かな、じつに手前勝手な願望は、この自分たちの果てし
 のない記憶、その尻のうしろの小さなバケツからつぎつぎと情け容
 赦もなく零れ落ちる記憶を、尺取虫のあの素晴らしい姉妹たちが、
 粘液のかすかな染みをつうじて、読み取り可能な記述の水準にまで
 いつか押し上げてくれることである。
  いましも、件の坂道を尺取虫の姉妹たちが列をなしてしずしずと
 下ってゆく。登るホッチキスたちと下る尺取虫たちが擦れ違うこの
 歴史的邂逅の瞬間
――。しかし、この深い森のなかで、登る道と下
 る道、果たしてそれは同じひとつの坂道なのだろうか。





  拷問道具としてのホッチキス

  カッチ、カッチ、カッチ、カッチ……。ホッチキスを打ち鳴らし
 て、あの男たちがまたしても現われる。あの日、ほのかに光る死児
 のまぶたを閉じた、ステープル針の冷たい輝きが、私の脳裏によみ
 がえる。まぶただけではない。耳たぶ、鼻腔、口蓋、肛門、およそ
 閉じるべき箇所はすべてホッチキスで塞いだのだ。

  遥かな米国コネチカット州のホッチキス社から絶え間なく配信さ
 れている、綴じよ、綴じよ、というメッセージ。そしてそれに続く、
 剥がせ、剥がせ
――恐ろしいのは、尻尾のあの禍々しい爪だ(それ
 にはホッチキス社によっても名前すら与えられていない。)
  どうして人間はかくも多くの粘膜を所有しているのか。綴じよ、
 綴じよ、剥がせ、剥がせ。カッチ、カッチ、カッチ、カッチ……。
 ホッチキスを打ち鳴らして、あの男たちがまたしても現われる。地
 下壕の闇に、狼たちよりも恐ろしいあのホッチキスの群れが放たれ
 る。

 

 index