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Collection詩集 T         


須永紀子
須永紀子


















































































詩集 
中空前夜

須永紀子
書肆山田 20061

身体が運ばれているとき、わたしたちはいろいろなことを考える。
断片的に、または散文的に。心が先に行くこともあるし、身体が
引っ張っていくこともある。移動する身体と意識の流れ。
それを「中空」から見るとき、詩が生まれてくるのだと思う。
(あとがきより)



 

  夢見るちから

 土の下で新しい水が甘く匂っている
 深々と呼吸をすると
 ふるえが少しおさまった
 わたしは小さなベッドを抜け出す
 ささやかすぎる食事から
 古い本ばかりの図書館から
 実質的で信頼できる人々の住む町から

 いつも心が先に行ってしまう
 本のなかの砂漠の町、濡れた夢のほうへ
 身体が追いつく間
 本体であるわたしは上の空で
 傘をなくしたり紐をたてに結んだりしている

 はじめに来た電車に乗ろうと思った
 海へ行きたいが
 のりかえがわからない
 地図の読みかたをしらない
 世界の大きさの見当もつかなかった
 電車は山へ向かっている

 「なにごとも一つのところにとどまるのはよくない」
 本のなかで東方の人が書いている
 「流れることはよいこと」
 「流れることで不浄からのがれる」
 流れていれば清くいられるということなのだろうか
 「お金や水にように」と東方の人は言っている

 先に行く心に身体を添わせ
 きょうわたしは流れていく
 流れていくことを選んだ





  特別な一日

 左足から靴下をはき
 湯を沸かしパンを焼く
 朝は儀式のように
 何もかもがスムーズ
 今日は昨日の続きなんかじゃない
 新しい平らかな気持ちになって
 漕ぎ出すように出発する

 雑木林のあるC公園
 小枝が散らばるケヤキ通り
 駅に向かう人たちを追い抜いて
 身体は少しずつハイになってくる
 誰よりも先を歩きたい
 体内で何かが発生している
 アドレナリンとかエピネフリンとか呼ばれる
 すてきに熱いものが
 駆けめぐろうとするのを感じる

 駅前には三人の女神がいる噴水があって
 ライオンの頭に守られながら
 水はその口から出ている
 だから正式には「噴水」ではない
 忘れられ、ほとんど眺められることのない
 薄汚れた白い女神を
 いつか洗ってやりたい

 古い公民館と港町のような市場
 小さな遊歩道にはオリーブの木が一本
 もうじき取り壊される公団住宅の
 ベランダにシャツが一枚干してあり
 マリーゴールドの黄色が鮮やかで
 そこから目を離すことができない

 夜になったら
 今日わたしが眺めたものをつなげて
 地図を作ろうと思う
 それから線をことばにおきかえて
 長い長いラブレターを書くのだ






  不器用な身体

 
午前二時のキッチンは
 山奥の湖のようにひっそりと涼しい
 そびえ立つ冷蔵庫
 夢見る心臓サーモスタットが動き出し
 バリバリ闇を破って
 白いボートが出現する
 ためらうことなく乗りこんで
 わたしはリビングの海をわたる
 テーブルは島、本棚は岩
 水槽の明りが海を照らし
 世界は 「パイレーツ・オブ・カリビアン」
 不思議な遠近のなかをボートは進む

 流れが急に速くなって
 この先は滝であるらしい
 身体にちからが入る
 わたしは落下というものが怖い
 身体が宙に浮くとき
 大事なものを失うような気がする
 たとえば
 記憶の深いところにあって
 まだ取り出されていない
 生まれたばかりの肌や傷ひとつない心。
 選び取らなかった未来の図にあふれる
 どこまでも明るい光。
 それらがこぼれ落ちていくとき
 一撃のようなめまいがやってくる
 不器用な心とからだは
 その事態をうまく受け入れることができない
 いつだってそうなのだが
 地上を離れるのが怖い
 落ちていく瞬間
 ボートの縁をつかんで
 床に伏せた
 
 五月の風と光がさしこむ部屋
 もう目の見えなくなった母が
 次々におとずれる客と話している
 タブッキの小説『フェルナンド・ペソア最後の三日間』のように
 まだ声が聞こえる喜び。
 「水を飲む?
 母は頷く
 「わたしがわかる?
 しっかりと頷いた


 
風も光も濃くなって
 八月の夜明けは早い
 もうじき鳥たちが鳴き
 ジャングルのような朝が来るだろう
 それまでわたしは
 仮の死のような眠りを眠りたい
 勤勉な耳に <もうおやすみ> と言う
 ボートの底に伏せた姿で

 
<閉じよ> と念じる

 

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