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Collection詩集 T      


鈴木漠
鈴木漠


















































































詩集 
抽象

鈴木 漠
書肆季節社 19835

視覚や聴覚はもちろん出来ることなら触角にうったえる言葉をこそ、
というもっともらしい理念を心の片隅に措いたまま、むしろ私はその
逆の方角へ、ともすれば抽象名辞をのみ追っていたのかもしれない。
(付記より)



 

  姉

 
わたしに幼い姉がある
 その薪水の労をわたしが扶けることはしない
 誰も知るまいが姉の白い下肢に
 小さな泉が湧きこぼれていて
 寂しい水音はわたしだけが聴いている
 水底で耳を開くことができるなら
 それはひそかに姉の心に適う者
 虹のかけらに濡れながら鏡の奥の
 姉を呼んでみてほしい
 けれど垣根の外に出て
 遁走する雨雲を繋ぎとめるのは
 姉にとっても禁忌
(タブー)であるはずだ
 鏡の中ではつねに左右の景色が入れかわる
 ではなぜ空
(そら)は空(そら)のままむなしくて
 水はまた水でいつまでも
 その水平を保っていられるか
 訝りながら姉は
 小鳥の屍骸や雨靴や
 腐った草花の種など折々の
 漂着物を拾いあつめている
 眠りに墜ちる前の唯識の岸辺を
 音もなく航行する船も
 通り過ぎればそれは日常の
 ありふれた時間の残像である
 わたしにたいせつな姉がある
 訪れる夕暮れごとに
 一本の杖となってしまう姉が





  抽象

            
世界が恐怖で充ちていればいるほど芸術は抽象にむかう
                                /パウル・クレー

 
窓辺からくるひかりの紐が
 束ねられて
 妹の背中を敲いている
 それでなくとも室内は
 じゅうぶんに鬱血し
 すべての什器は
 毛細管の網模様で包装される

 窓の外の青い奈落を
 遊星が墜ちつづける間に
 妹は
 いく度仮死したかしれない
 睡眠は
 ときに美しく反転する波であり
 それなら妹の愛の不安も
 水のかたまりも
 毀れた椅子も
 熟れる麦の穂も
 悉く一本の線の形に帰納されるはずだ
 この世界がわるい夢の
 つづきであるからには

 傷つき易い事物たちにとって
 ことばとは
 存在するために必要な輪郭
 こころは透きとおった容器だ
 そのふところには
 色彩の嬰児が抱かれている

 たとえば天上的な青
 偏愛される藍色
 それらを器に盛ることが妹の願望
 妹の内部で
 水圧は一層高くなる
 硝子のコップに水を注ぐ
 水には水の輪郭が与えられる
 水を飲み干してこんどは
 コップを水に沈める
 するともうわからなくなる
 こころの行方も
 ことばの在りかも

 風の中で撓む
 小さな樅の木
 それは妹の
 かんばしい骨骼である
 いのちの火を享
(う)けつぐとき
 確実に他の誰かが死ぬ
 その転生の外にのがれ出るには

 沸騰する感情の水を捨て
 血を捨て
 髪膚を燃やして
 妹が妹であるばかりに
 たまたま具現した多くの属性を
 脱ぎ捨てることだ

 耐えていなければならない
 コップの縁
(へり)に触れた水滴が
 一個の遊星に成育するまでの暫くの間を
 それから
 抽象の矢は突き刺さる
 妹のたましいの
 深い割れ目に





  椀

 長いこと椀の中を捜している
 つつましく魂の点るべき場所を
 器
(うつわ)の底には
 発光する曠野が見えてこないかと
 遠い時の崖を
 内なるわたしの遊軍は
 いつも迂回して過ぎる
 ものいわぬ什器や
 ゆるんだ水道の栓を
 柔らかく闇が包むとき
 わずかばかり暮れのこってわたしは
 一日の凹
(へこ)みに
 薄い雪を掬うのだ
 椀のそこで夢想されるだろう
 青い頂点
 まばゆいその負の円蓋
 わたしはわたし自身の飢えにこだわり
 見えないものをいつまでも
 肩に降りつもらせる
 飲食
(おんじき)を終えて
 ゆくりなく椀をすすぐ夕ごころ
 目下唯一わたしの
 とぼしい詩と真実とのみ

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