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Collection詩集 T         


池田實
池田實


















































































詩集 
暁闇のトロイメライ

池田 實
思潮社 20095

名前の分からないものは
  不安である
  不在でさえある

何という名の蝶だろう?  (「喪の儀式」より)



 

  トロイメライ

 
欲望の生暖かい吐息を纏わせながら
 肉体は闇に
 優しく抱かれ
 手足の指先から弛緩し
 自由を奪われ
 闇に溶けていく

 続いて胴体
 内臓が溶けていく
 脳は弛緩し
 半融解のまま
 闇に浮遊し

 時間と空間が戯れ
 溶け合う溶暗で
 夢は映像となり
 意識空間に投影される

 この瞬間私は世界との関係性を切断され
 記憶の淵をこぼれ落ちていく夢の
 きれぎれを私は意識しようとする
 私はその自分を意識している

 しかし誰にもわからない
 夢の中に私は存在し自在だ

 子午線を滑り降り始めた初夏の太陽に
 反照する花壇の花々

 爽やかに吹く風で奏でられる葉擦れの
 低音の諧調も心地よい

 黒い詰め襟服の男が革表紙の聖書を抱え
 古い教会に消えていく
 彼は文化の世界遺産であるこの教会の
 元神父の管理人である

 聖書と見間違えたのは文化遺産の分厚い管理書だ
 私は夢に入り込んでくる過去の多様な時間に曝される

 それらの時間は交錯し共振し
 過ぎてきた文明や文化の幻影が見えてくる

 支配者に庇護され栄えた文明と文化
 そして断続的な戦争と平和

 権力者の詐術に呪縛され 支配され
 時代の底辺を這いずり生き継いできた無辜の人々
 歴史の記憶の断片に現れ
 消えていく人々

 世界遺産の教会の尖塔を回り
 飛び交う黒い蝶の群れ
 蘇った死者たちが黒い翅をクロスし
 飛び交っているのだ

 教会にはすでに神は不在だ
 神は既に文化遺産になっている
 私は奇妙な時間感覚に巻き込まれている

 生涯の記憶の洗い直しをしなければならない
 堕落していく時間の縺れを解きほぐし生きねばならない

 キリストや親鸞やマルクスや夏目漱石の想いのように
 「私」は他者と共に在らねばならない

 遠く消えていくトロイメライ

 闇に溶けていた私の肉体は手足から順に固まり始め
 夢の外に引き摺り出される

 その瞬間
 時間は私の肉体の細部にまで入り込む





  溶けていく

 天空に星は沈み太陽は氷結したままだ
 存在の証明の出来ない今が私を包み浮遊している

 それでも森閑とする一瞬の今があり
 現れ出る何ものかがある

 その何ものかがさっと触れていく
 何ものかが

 神の不在の都市では総ての生あるものは死の影を纏う
 不定型な影で覆われている世界が広がり

 昼と夜の光の織りなす超現実の空間を
 死者は幽霊になって彷徨っている

 色彩を失い生きた人間の影を引き摺る

 偶然入り込んだ私を人形
(ひとがた)の闇に掬い取り
 タワーマンションの暗緑色の闇に誘い込む

 爛熟した匂いを発している果物に
 死者はナイフをいれ 切り分け
 招いた私に勧める
 口に入れると匂いも味もない
 シャーベットのように忽ち舌に溶けてしまう
 不思議な心地よい触感だけが口中に広がる

 私たちは静かに交わり
 夢に溶けていく


  

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