◇お断り◇表記できない漢字は別の漢字に置き換え、また、ルビは()で表示しています 

Collection詩集 T       


渡会やよひ
度会やよひ


















































































詩集 
途上

渡会やよひ
思潮社 200910

 「ハンガーにマフラーを忘れているよ」

ハンガーはガンハーで
マフラーはフマラーでよかったのに
間違い続ければよかったのに
正さなければよかったのに   (「高殿」より)



 

  真夜中のポニー

 
砂地に疲れたわずかな草が瞳を閉じると
 暗がりの中で水道の蛇口がほんのり光る
 ここはホテルの中庭ですから
 徘徊するほど広くはなくて
 出口はどこかにあるのだけれど
 外には知らない闇があるだけ
 風は遠くの岬のもので
 地衣類が唄う断崖の歌が
 とぎれとぎれに聞こえてきます
 いくつもの輪につながれ
 はずされて
 移動と滞留をくりかえし
 いつからか
 ここにいるのだけれど
 茶碗のような空の井戸から
 ときにはげしく星が降っても
 世界はいつも遠くにあって
 枯れ向日葵が首を垂れ
 プラスチックのバケツのころがる
 まるい草地を歩き回って
 この夜更け
 蒸気にくもるガラス戸に
 大きすぎる顔を押しつけても
 渡り廊下の灯りの下を
 無心に進む老いた姉さん
 あなたの方へ
 入っていけない
 わたしは
 ただの
 からだの小さな
 馬です





  不可解な建物

 その建物がいつからあったのか
 思い出せない
 気がついたら
 そこに住んでいた

 どこか欠落のある建物だったので
 屋根裏に山猫を飼い
 風通しの悪い階段をのぼった
 中庭にデージーを育て
 盲蜂のようにその睫をくすぐった
 気まぐれな荒星が天空で囁くのを感じながら
 部屋という部屋で細編みを編んだ

 欠落を忘れかけたころ
 遠くの割れた岩石に虹がたって
 失われていた欠落が戻ったように
 納骨堂の扉が嵌め込まれた

 建物は完成し
 新しい欠落が
 またどこかで始まった





  菫まで

 
追い抜いていった人の顔は見えない
 息を吹きかけて硝子窓を拭う少女は
 うたを歌っている
 夕べの川面が見える病室では
 手鏡が揺れている

 暗い倉庫の前で
 バーナーを当てる人の額から
 無数の羽虫が逃げていく

 うすいカーテンが閉じられた部屋で
 忘れられた出来事は
 ひっそりと羽化しはじめている

 風は雑木林を通り抜け
 丘の上の墓石を目覚めさせる

 信号は見え隠れしながら
 ずいぶん後ろになって
 空の端はまだあかるい

 立ち止まったつま先の
 こんもりした松の根元で
 あえかな根毛は地中にのびる

 この夕方の
 すべてのむらさきを集めて
 なぜ
 あなたは咲くのか
 誰も知らない

  

 index