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Collection詩集 T         



小柳玲子
小柳玲子


















































































詩集 
夜の小さな標

小柳玲子
花神社 20084月2刷 
26回現代詩人賞

「これです これです」
「あの犬を見かけた人は 死が近くにいます
 
お気をつけなさい」 (帯文より))


 

  夜明け

                  かしこには ただ 序次(ととのい)と 美と
                  栄耀と 静寂
(しじま)と 快楽(けらく)
                            ボードレール(鈴木新太郎訳)

 夜が明けていくらしかった
 いくつもの目が深く閉じられていたが
 ひとつの目だけが大きくひらかれているのを
 私は眠りの中で分かっていた

 傷の多いトランクに傘とコートを仕舞い
 私は古い版画を売る旅に出るところだった

 寝室も居間も闇に満ちていたが 玄関はさらに暗かった
 玄関はいつになく広く 大きく
 なぜかバスの発着所になっているのだった

 辺りは友人のような それほど親しくはないような でも
 知らないとは言いきれない 奇妙な人たちが往き来していたが
 私はその誰とも話したいことがなかった その誰も
 私に話したいことがないらしく あらぬ方へ顔を向け
 私はことさら誰とも話したくないのだと 強調するために
 ひとり 暗がりで古い版画に目を落としている

 版画の中はよほど深い夜なのだろう 描かれている家の玄関が開き
 電灯の明かりがアプローチに洩れている 辺りは黒い闇で
 ただ家の奥から急を告げる客の声がひびいている
 異変がおきたのだ きっと 二階の窓にも明かりが点
(つ)く 誰か
 「誰?」と言い 見えないものたちが「どこ?」
 「あっち」と騒がしい

 玄関にはバスが入ってくる 遠い土地からやってきたのだ
 車体は雪にまみれ 間もなくもっと遠くへ行くらしい
 真夏のこんな日に いったいどこの里からきたバスなのだろう
 私はバスに乗るのだ 古い版画を商いに出かけて行く者なのだ
 なにほどの金が手にはいるのかあてもなかったが
 あそこには 序次
(ととのい)も美もありはしない まして静寂(しじま)
 あるのは ただ駆け引きと うそ 短い夏のざわめき

 夜が明けてくるのだった 私はトランクを忘れかける
 けたたましく二階へ駆け上がっていく 「誰?」と誰かが呼ぶ
 「どこ?」
 もっと向こう もっと向こう おまえのトランクは消えかけている
 二度とこの世には戻ってこない 友人ではない でも
 知らない人でもない 親しくはない あの
 奇妙なものたちと一緒に 二度とはこない夜の中に
 畳まれていく





  あかるい雫

 南の小さな村で彼は生れた
 ウジャウジャリィ それが彼の洗礼名だ
 お国の言葉で(旅ゆくもの)という意味である
 彼は国を切なく愛しているが
 そこにとどまることが許されていない
 運命ってやつだ
 その国では
 昼はみな水にもぐり棲むものを採る
 午後は裏庭で豚を捌き
 日が沈むと眠る
 月がでると木の実を採りに
 高い木に登る夜もある

 
――安息日はすてきです とウジャウジャリィは私に告げる
 古い石の教会へみんな出かける
 地域で唯ひとつのステンドグラスがそこにある
 グラスの中ではもう何百年も守護聖人ウジャウジャリィが跪いてい
 る
 そのウジャウジャリィ(私のことではありませんと私の知っているウ
 ジャウジャリィは私にいう)は いつも兜を脱ぎ 天から降りて
  くるあかいものを受けとめようとしている
  「私の子どもの頃からずっとそうでした もちろんいまもです」
 それはいま降りてこようとしている
 それはまだ見えていない
 ウジャウジャリィの貧しい国では
 みんなそのあかるい雫を待って暮らす
  「去年もそうでした たしか八月でした 私の短い帰郷の時です
  それからまた慌しい出稼ぎの旅です」

 去年は今年ではない
 九月は八月であるものか
 ウジャウジャリィ
 人を励ましたりするのは どうも私の得手ではないが
 それはそこにあるではないか

  

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