
詩集 家族のいる風景
近藤香織
澪標 2012年4月
生活抒情詩というのは生活をスケッチするだけというのではなくて
さまざまな生活の心情の奥底、身近な思いや喜怒哀楽の深層を歌う。
そこを通して外部からも見えるような思いを描く。
(帯文より)
かあたん
かぁ
かぁた
かぁたん
かぁたん って言った?
かぁたん って言えたんだ!
喜びはじける笑顔の母(わたし)を見て
息子(こども)もきゃっきゃっ大はしゃぎ
かぁたん かぁたん かぁたん
かぁたんから
お母ちゃん が
お母さんに
そして
おかん になった今
何でも話してくれた息子は
口数少なくなり
母をけむたがり
時に
おかん うるさい黙れ
親ばなれを始めている
難しい時期なんだ
わかってはいるけれど・・・
大切にしまっている宝石箱の
ふたを開けると
きらきら輝いている言葉の数々
その中から
〈かぁたん〉を
今
そっと手に取る
寂寥
ようやく名前が呼ばれ
診察室に入った
「五センチの動脈瘤が見つかりました
放っておくとせいぜい一年でしょうか
高齢ですが手術はできます」
丸椅子にちょこなんと座っていた父は
医師の言葉を予期していたかのように
背すじを伸ばし
即座に答えた
「この世に思い残すことはりません
遣り残したこともありません
十分生きました」
父の目は穏やかな光を含んで
無限遠方に広がる
寂寥
受容
どこからともなく
次から次へと
蟻が寄っていくその先に
とかげの子どもが死んでいた
頭 背中 開いたままの肢
ちょっと右に曲がった尻尾の上を
蟻は忙しそうに行き来し
噛みついている
とかげの子どもは徐々に
白く 硬く 干からびていくが
目はまだ黒く潤んでいる
その艶々した二つの目は
己が身を食われるままに
じっと空(くう)を見ている
|