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       Collection詩集 Ⅰ  


柴田三吉・草野信子


















































































詩集 
三月十一日から

柴田三吉・草野信子
ジャンクション・ハーベスト 2012年5

 二〇一一年三月十一日から同年十二月の終わりまでに書いた詩を収めた。
これだけが、その月日に書いた詩のすべてである。
 私と柴田三吉さんは、詩誌「ジャンクション」の発行同人だが、はじめて
二人の詩で一冊の詩集を編んだ。自分自身の表現をさし出すとき、互いが、
相手の言葉の力を支えとしたいと思った。そんな切実があったからだ。
(途上であとがきとして 全文)




柴田三吉


  掌の林檎

わたしは知ったのだった
雨に打たれて帰り
蛇口をひねって水を飲んだとき
それを知ったのだった
逃げる場所は もう
どこにもないのだと

それはどこまでも追いかけてくる
心のなか 大切にしまってきた歓びにさえ
まっすぐ浸透しれくるだろう
光る雨 青白い風
目に見える 透明な
物質となって

――むかしむかし、てのひらに腐ったりんごを
 のせて暮らすひとびとがいました。りんごの中
 には、とても熱い火の種がつまっていました。
 種はうすい金属の皮を、じくじく熔かしていく
 のですが、おとなたちは、皮膚が焦げるのもか
 まわず、じっとにぎりしめていました)

そんなお話を いつの日か
小さな食卓で語りはじめる子どもたち
そこにわたしはいないだろう
けれど 子どもたちの掌には
ひとつずつ配られた
重い果実が

深夜 わたしは台所に立ち
蛇口をひねり 喉を開いて水を飲む
心を浸し かなしみを浸し
一杯の水を飲み干す
コップ一杯分の汚れを この世界から
拭い取るために




  わたしのマトリョーシカ

青いエプロン、くりっとした瞳の、あどけない人形
の中に、黄色いエプロンをつけた人形が入っている。
その人形の中には、さらに小さな、赤いエプロンを
つけた人形が入っている。どこまでも、どこまでも
開いていくと、ついには豆粒よりも小さくなってし
まうというけれど、最後の人形だけは、だれも見た
ことがない。だれの目にも見えない。

お腹のいちばん奥にうずくまり、すべての人形を操
り、わたしたちに解けない笑みを投げつづける女の
子。それが鉛のエプロンをつけたマトリョーシカ。
母さんのお腹の中の卵よりも小さな子は、いのちで
もないのにいのちのふりをし、二つに分かれ、四つ
に分かれ、無限に分かれ、かわいいエプロンをつけ
た姉たちを殺しながら飛び出していく。

奔放で言うことをきかない、わがままな娘は、ちり
ぢりになって野や山を駆けていくけれど、だれがお
まえをとらえ、棺に納めるのか。それとも、この世
界こそが、おまえの棺だとでもいうのか。それさえ
まだ、おまえは小さすぎると言うだろうか。あどけ
ない笑顔の底に埋もれた女の子。いつか、わたしを
抱きしめにくる、ちびのマトリョーシカ。







草野信子


  おだやかな美しい五月

まぎれこんだ羽虫
醤油のあまくこげる匂い
窓から くすのきの枝がのぞいている

自分のちからでは もう
歩くことができないひとのもとに
そっと おとずれるものたち

ある日の午後の雨音
窓ガラスをつたうしずく
山が ふかみどりにしずまっていく

ここよりほかに もう
どこへも行くことができない母のもとには
せかいのほうが 訪ねてきてくれる

遠い記憶が
まひるの眠りの夢が
そして あなたの娘が 訪ねていく

具合はどうですか
おかあさん おだやかな美しい五月です

長い年月を生きて
もう じゅうぶんに悲しんだ人への嘘を
せかいは 許してくれるだろう

破壊された街を
死んだ人たちを
私の手のひらでかくして

おかあさん おだやかな美しい五月です
ゆっくりと 嘘をつく

瓶にゆれるヒメジョオン
小さく風をはらむカーテン
ひかりが ゆかでわらっている




  ガソリンスタンド

レジスターがなくて
お釣りといっしょに
手書きの領収書をくれた

うす紙の カーボン複写の青い数字

遠い日に刷られた文字が
店の名と 土地の名を 教える

汐見町21
ガソリンスタンドに わたしはつっ立ている

沿岸のマンションは
四階建て で

波は あの 屋上を越えてきました

店のひとは
ただ それだけを言った

立ち去ることができない客を見送る
あいさつのことばだったのだろう

指ささなくても わかった
指さすものは ほかになにもなかった

四階の窓から
木の根が 突き出ている

  

テーブルに置いた
カーボン複写の青い数字が
八月の海沿いの距離をおぼえている

浅い眠りのなかでは
遠い地の夜の闇に
給油機が ぽつんと 灯りをともしている

なぜ 来たのですか
なにをしに 来たのですか

店のひとが
ただ それだけを問うので

壊れた世界を修理しなくては
泣きながら言うと
目が覚めた

そんな夢をくりかえしながら

はぜの葉 かえで ななかまど
領収書のうす紙
ノートにはさんで
はじめての冬をむかえる

   

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