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         Collection詩集 Ⅰ


大西久代
大西久代


















































































詩集 
海をひらく

大西久代
思潮社 2012年10
 

 一面の土筆を手折ろうとすると
 指の先から煙と見まがう うすいものが起ち
 土筆が秘めるほの暗さに戸惑った
 秘めているものは あふれだす
  (「水のあした 傷跡」より)




  寒椿

透明な空気に満たされ
つぼみという宇宙で魂はのびあがる
まだ 花と名付けられないものが
光へと首をもたげていく
静まり返った林道をひとりの男が
とある意図を忍ばせ登ってくる

金毘羅宮の裏参道でひっそり
咲き続けるヤブツバキ
男の心にいま甦る
遠い時代
(あのころ)の人の心を揺らした
花のつやめき
開いたまま首を折る哀切
生きてあることの敬いと
死にいくことへの畏れ
を滲ませて

男は壁面にあふれんばかりの椿を描いた
藍の色を想わせる紺一色で
磁器のタイル画が生みだす原生
冷気にも似た紺椿から水がしたたる
甦る葉と葉 つきぬけていこうとする花
花蕊は風をまつ

奥社へ千三百六十八段の跫音
竹杖を響かせて
秘めた祈りが路地にこぼれる
空は無色にひろがって
天空からの光が
静かな願いのように
花にそそがれる




  野ざらしキリン

地図を広げる
濡れた窪地から風が起こり きのう
自転車が走りぬけた道を
指先は辿れない

病歴の書きこまれた書類を
正午までに届けること
名医を求めて訪ね歩いた
という母とのやりとり
記憶がまたひとつの風景をたぐり寄せる
列車の窓がきり裂く海 白い波頭
鳥の行く先に半体を沈ませた舟
不安定な形が生なら 私
脱げない靴のまま
傾いている

忘れられた小さな公園
濡れたアジサイの陰からキリン
熱砂の草原を行き来する
夢の距離だけ
痩せていくことも知らないで

迷った先の交番も雨水を滴らせ
広げた古びた地図から
目的地は鮮やかに見えているのに
早 昼を告げる迷い鳥

手続きは始まらない
濡れた靴の先で紙幣がつぶれる
傾いだままキリン
遠い日の子供の喚声を呼んでみる
剥げ落ちたペンキも汗に濡れて
視線の先でサバンナ 蜃気楼に揺らめいて
踏み続けるペダルが重い




  父の舟

父の背から舟が出てゆく
未明の空を滑るように
ついに父はその手に
輝く月を持つ時をえた

生者の海は豊饒な命のほとばしり
曳いてもひいても尽きない
求めくるものを際限もなく満たす

親や弟妹を背負わねばならなかった父は
たぎる血潮を封印して
望む水からは遠い職に就いた
背に隠した舟からは
ときおり水しぶきがあがり
舵が不能になり自らに生じる怒りは
荒波となって日々をゆらした

唯いちど舟に乗った記憶
幼い私を船縁に座らせ
朝霧を突いて櫓を漕ぎだす
遠い目をして水先を見つめる
父の内側を欠けた月が静かに巡る
小さな魚を釣りあげたとき
驚きの声をあげ私を誉めたが
激しく唾棄したいものが
父の胸からこぼれ 水底をうねった

鎮めた舟がある日逆流する水を捕らえた
父は覚悟のように水を解く
背が明るみ 時つ海に月があがると
朝の食卓に賑わいがもどる

夢に佇む父はいつも無言
私もまた舟を隠し持つことを知った父よ
不器用にしか生きられない娘に
解き放つ時はくる と
遥々と見せに還ってきた


   

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