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  Collection詩集 Ⅰ       


近藤起久子


















































































詩集 
ひとの望み

近藤起久子
ジャンクション・ハーベスト 2014年2
 

 花って
 ひとのために咲くわけじゃないよ
 と言ったひとを
 すきになった
    (六月の花」より)





  生活習慣

簡単な
いくつかのことばで
暮らす

からを割って生まれる
ひよこ

朝 昼 夜

光る雲
風の強い日
口笛

ざらざらの砂のような
あらい塩みたいな
少しのことばで暮らす

知っている
いちばん古い歌を
うたう

雨がぽつぽつ降り出した

じょうろに溜まったあの水を
あしたは
鳥が飲みにくるだろう




  ひとの望み

主よ ひとの望みのよろこびよ

バッハのつけた
ふしぎなタイトル

くらい海をわたるとき
刃物をのみこむとき
へびのとぐろをまたぐとき
そのようなとき
それでも

生きるほうへ向かう
わたしたち

朝いちばんの電車の窓から
遠くに海がみえる

かなしみの裏地があてられ
ひとの望みが
光っている

今日も ときは満ちない
かなえられない望み

波に洗われ
小さく平たくなった
ガラスのかけら


はじめのかたちを忘れ
待つことを忘れ
待っている

    〇

職場の佐藤さんの息子の信一君は、六月にバイ
ク事故で意識をなくし、翌日に二十二歳になり、
意識が戻らないまま、半年過ぎた。

数日のあいだは、時間が戻ればいい、とだけ考
えていた、と、ずっとあとになって佐藤さんは
言った。

三週間ほどたち、スキャンの結果がでて、お子
さんは生きようとしているようですよ、と、お
医者さんが言った次の日、佐藤さんの望みは、
信一君が完全に復帰すること、仕事にも、恋に
も、と付け加えた。

見舞いにいくと、澄んだ目が、ぱっちりと開い
ていて、それでも意識はないのだった。


それから二ヵ月くらいたち、もし意識が戻った
としても、「ふつうの」生活はできないでしょ
う、とお医者さんに言われたころ、佐藤さんの
望みは、できれば死んでほしい、だった。望み
という言葉をつかった。

大きい手術、小さい手術、緊急の呼び出し、看
護士とのけんか、転院、などがあり。

十一月、好きだった車の雑誌を顔の上にかざす
と、目で追うようなようすをみせた。

認識はしているようなのです、と、「よいお年
を」の挨拶のあと佐藤さんは言って、続けた。

今の望みは、自分でごはんが食べられるように
なること。チューブも、人工呼吸器もはずして。

望みは
かたちをかえ 着地して
佐藤さんの手元に戻ってきた。

    〇

よろこびとかなしみは
ふたごだから

さざなみのような光に満ちた
その曲のタイトルを
ひとの望みのかなしみよ
と いいかえても
バッハは きっとおこらない

けれど そのあと
その文字のうえに
そっと線をひいて
よろこび と
もういちど書き直すだろう

もし 主がいなくても
望みはひとのもの

かなしみをわたるための
ランタンだ




  口約束

約束をする

そしてわたし
あたらしくなる

川のむこうに
小さい山が見える

足元まで寄せた水のなかで
砂が光っている

言葉だけの約束が
からだに
にじんでくる

犬がこっちを見ている
耳に草の実がついている

   

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