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Collection詩集 Ⅰ         


草野信子


















































































詩集 
その日まで

草野信子
ジャンクション・ハーベスト 20165


ない、と言えば
ないものが
そこらじゅうに あふれだすから

あった、と
ひとつ ふたつ
名前を口にして
ないものに 触れてみる
  (「それからは」より)




  その日まで

川沿いのみちを つるくさのように来たのに
うちのおばあちゃんが 留守で
さとえさんは わたしとお茶をのむ

ふるさとのはなし 朝の雨のはなし 冬瓜のこと
そのあとで 冬瓜のはなしのつづきみたいに
さとえさんは 言う

死にたい
もう 死にたいのだけれど

会いたい 知りたい
たい、は 希望のことばだから
死にたい は
九十五才の さとえさんの希望だ

だれにも明かさずにいたそうだ

かならず かなう 願いだから
その日をゆめみて 待つことにしましょう

わたしが そう言うと
さとえさんは うつむいて
うすい腿にのせた てのひらを見ていた
指のなかに ひかりはとまり ひかりはこぼれ

まだ 花をつける 秋のあさがおの縁側にすわり
さとえさんとわたしは
それから いくつもの死のはなしをした





  実技練習

水曜日 四時間目
はじめて川野さんとペアを組む
若いひとがたくさんいるなかで
とりわけ若い と思うのは
中学生のころの川野さんを知っているせいかもしれない

先生 先にしますか?
マッサージベッドの横に立って 川野さんが聞く
せんせいじゃないよ 川野せんぱい
まえに笑ったことがあったが しかたがない
わたしが国語の先生だったとき
川野さんは生徒だった

実技練習は 一単位が九十分
四十五分が過ぎると
施術する人と される人が交替する

わたしが 先に
川野さんの足うらにふれる
つめたいですね と 習ったとおり声をかける
七月の午後 若い足うらが おどろくほど冷えている

見られることも
触られることも ほとんどないだろう
手の指よりも 無口で
手のひらより 無防備で
足のうらは
わたしの好きな からだの部位だ
ためらいなくふれることができる ひとのからだ


川野さんは建築会社の事務に就いて 三年働き
それから アルバイトでいくつかの仕事をして
しばらく家にいたあと ここを見つけたそうだ
やっていけそうだな と思いはじめたころ
新入生のわたしと会った
先生 ですよね?
川野さん?

疲れがたまっているようですね と
声をかける練習をする
はい 眠れないものですから
川野さんの返事も テキストにあったものだろう
うれしそうに こたえる

こんなふうに
ふれてあげればよかった
まだ子どもだった 十五才のときも
ただ あの手をつないでいればよかった
泣きたいような悔恨に
わたしは やわらかな足うらを 抱く

次に 川野さんが施術する人になる
ていねいに揉みほぐされていく

施術してもらいながら技術の確認をしていきなさい
眠ってしまってはいけませんよ
わたしたちの先生は いつも言う

水曜日 四時間目
川野さんの指に
わたしは 深い眠りにおちていく





  汲む

体験したひとにしか わからない と
体験していないひとは 言った

それでも なお
近づきたくて

ひとの
ここをの水際までを 歩いていく

おもいを 汲む

解くこと 分けること
明かすことは できなくても
汲むことはできるだろう

わたしという小さな入れものを
沈黙をたたえた みなもに
差し入れて

おもいを 汲む

体験したものにしか わからない と
体験したひとは 言わなかった

あふれていますよ と
しずかに言った

両手で汲んだ
わずかなものが
わたしの指のあいだから
こぼれている

   

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