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Collection詩集 Ⅰ         


浅野慈子


















































































詩集 
海辺のメリゴーランド

浅野慈子
ボートハウス社 20188
第15回日本詩歌句随筆評論大賞 詩部門大賞

温かい泥に沈みながら
だれでもないわたしは
だれでもないまま
だれかになっていく
 (「ムーアの上で」より)



   海辺のメリーゴーランド

だれもいない浜の霞んだ景色のなかで
馬たちが
静かに回転しながら
空気の層をかき混ぜている

むこう側へ消えていっては
また戻ってくる
おなじ馬
それを繰りかえす
(ひらたく広がる海面は
もはや空との境目がわからない)

根なし草のように漂流する糸
夜のオフィス街にもつれあう糸
やまない回転が
世界中の糸という糸を
すくいとるように紡ぎ
その一糸一糸を感じようと
わたしの内部が上昇する

馬たちの背にそれぞれ
白い人々が乗っているのが見えてくる
回転は徐々にはやくなり
目を閉じれば
脳が蹄鉄の痛みを感じる

白い人々が唄いだすと
海辺に敷きつめられた小石の隙間から
緑がいっせいに芽吹いておどった

わたしの歳をあっという間に追いこし
サラサラと朽ちていった
先に消えていくものは
いつもうつくしい

わたしは凍えるように
海辺にじっとすわっていた


   
*イングランド・ブライトンにて




   キャラメル

ダムの 川むこうに
高い塔のある施設があって
囚われの祖父がいた
ただひたすら
いくつもの明日を待つだけの

若い介護士と写った写真を
うれしそうに指さして
孫のやっちゃんだとわらう
幼子のようなまなざしは
わたしを通りぬける
その先には
わたしのかたちをした空洞が
うしろめたく空いているばかりだ

毎日のように買ってきてくれた
森永のミルクキャラメルみたいに
あまいはにかみだった
またキャラメルか
何度も置き去りにした
小さな立方体は
コンクリートのように
重く積まれていって
世界を隔てるまでになっていた
口のなかでいとおしみ
転がしていたなら
世界を区別しなくてすんだのに

やっちゃん
数文字のひらがなは
糸のように縺れると
祖父の 今はない脳みそに
絡みつき

けれども
わたしと結びつくことはなく
煙になって のぼっていった

記憶をなくす人と
記憶をなくされる人
どちらがより
さみしいのだろう

積み上がったキャラメルを
つかんでは
世界へむかって放りなげる




   

まだ薄闇のなか 家を出る
蔦のはった木戸の陰に
走り去る キツネのうしろ姿
一日のはじまりに怯えるかのように

いつもの朝
端から四番目の家の窓際
小太りの猫が 支配者のように
訪れを黙って待っている

朝日の光線が重なりあい
群青が押されていく
パンの焦げるにおいがしたかと思うと
陽は 溶けだしたバターのように
町の角から流れていき
すべてのものを顕わにする
同じかたちをした家々が
みるみる色を変えていく

きょうという日は どこへ
鉄橋まで吹きあがる汽笛は
生きものへの喝采だ

丘の上のフラットからバス停まで
一散に駆けていく

   
*イーストロンドン・ハリンゲイにて


   

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