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     Collection詩集 Ⅰ


野口やよい


















































































詩集 
天を吸って

野口やよい
版木舎 2019年11
30回日本詩人クラブ新人賞


  いつか
  目覚めない夜がきたら
  衣をぬいで 肌をぬいで
  泳いでいく
        (「みずうみ」より)
 


  呼吸

天を吸って
天を吐く

天を吸って
天を吐く

呼吸は
天のひときれと
別のひときれとの
交換だ

生まれてから
ずっと
一度として
途切れることなく

雨もよいの夕暮れは
沈んだひときれを
春の日は
泡立つひときれを

吸って
吐く

頂いて
お返しする

どうしてわたしを
見放さないのですか




  ブラウス

結婚して間もない頃
義母が遠慮がちにさしだした

千の紋白蝶が集まったような
レースのブラウス

折角ですけど、と断って
なにかを守ったつもりだった私は
早い林檎のように青く
産毛まで硬かっただろう

受け取ることは与えること
そのための時間は
あまり残されていなかったのに

女の子が欲しくて
自分の息子をスー子と呼んだ人
春にはひな人形を飾った人

ブラウスといっしょに
その人の失望は
また箪笥の奥にしまわれた

    *

クローゼットを開いて
白いシャツを手にとる
さらさらという
遠い羽ばたきに似た音がする




  桜川

その頃はしんどくて
でたらめに電車に乗って
知らない駅で降りたりした

桜川 という川に辿り着いた
花咲くどころか
土手から傘やら板塀やらほうられて
のどを詰まらせている
どぶ川だった

わたしも 涙と
失恋の痛みをいくらか置いて
帰ったのだった

新しい人と出逢ってから
別の街で
桜川と再会した

川はいつの間にか澄んで
こもれびの下を
かろやかに駆けていた
長靴も自転車も もう見当たらなったが
水底にひとつ潜んでいた

あの日 わたしが手放したもの

揺れる水にあわせて
形を変えて

 あい になったり
 かなしみ になったり

手元にあったときより
ずっと
きれいだった



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