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詩集 空を纏う
江上紀代
鉱脈社 2022年4月
あの朝、あの日、
八月の高い空に来たもの
空を来るものを空は 拒まなかった
(「空を来るもの」より)
兆し
蝌蚪(かと)が
何をか企てている
神社のわきの小川の
流れのゆるやかな明るい水底に
おたまじゃくしが集結している
口々に呪(まじな)いらしきものを呟き
思い思いに時を待っている
やがて水が微温(ぬる)み始めると 一斉に
大地を掴む両手と
飛躍のための後足と
団結を示す揃いの衣装と
シュプレヒコールのための喉とを調え
鰓(えら)を肺にシフトした
さあ、今夜 陸(おか)を目指す
さあ、今夜 春を目指す
蝌蚪のクーデターだ
花
隔絶した暗闇に
ひそやかな息をしていた花が
突然光を受けた
モノクロームの
少しぼやけたフィルムの隅に
ふたつの白い花
海栗(うに)にも似た
奇異な形のそれは
光合成と無縁の深海で色を失ったか
風も戦(そよ)がぬ産土(うぶすな)を
定めと受け入れ
目を瞑りつづけているのか
音のないはずの花からは
健気(けなげ)な鼓動が伝わる
フィルムの中の白い花は
ここに生きている証の手を
静かに あげている
医師は画面を指しながら
それが
癌であることを告げた
空を纏う
砂利道を急ぐ母の下駄の音
消えかかった夕焼けが
真闇になるのを躊躇(ためら)っている
いくつの頃だったろう
母に背負われて
近くの掛かり付けの医者に通っていた
うす茶色の小児用の水ぐすりは
トプトプと音をたてた
風の強い日などは
擦れた天鵞絨(ビロード)のショールを纏(まと)った
その少しひんやりした手触りと
てらてら光る妖しさは
親子を無言にした
空は瑠璃紺(るりこん)を滴らせながら
闇の手前で何かを待っている
砂利道が舗装路になったころ
紺の天鵞絨は空になった
外灯のない帰り道 つかの間
私は 母を纏う
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