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       Collection詩集 U



坂東里美

坂東里美2































































詩集 
変装曲

坂東里美
あざみ書房 200910


ぜったい は純粋な構造物の接頭語 ぜったいは 何
ものにも比較されない ぜったい は一切他から 制
限・拘束されない ぜったい ぜったい あけないで
ね でも 箱をあけないで とは言わなかった ぜっ
たい をあけないで 箱をあけよう 
 (「球体以前」より)



 落脳日和

 脳が落ちていた
 微かに紅い灰白色の まるで頭上の桜の色を
 映した かのような それは 卵ほどの 大
 きさで こんなにも ぼんやりと 長い間
 土手に座っていたのに 今になって気づいた
 どこから いつ こぼれ落ちたのか すでに
 カラカラに干からびていて 手のひらに乗せ
 ると 思いのほか軽い 私の脳に違いなかっ
 た 試みに 頭を指ではじくと ぐぼん と
 空虚な音がする そうして見ている 間にも
 脳はさらに乾燥して 今にも 忘れられた泥
 団子のように 崩れてしまいそうだ
 灰白色の空から ぽつりと 雨の雫が落ちて
 きた ぼんやりと座ったまま 手のひらの私
 の脳は濡れる 濡れてふやけて 水が満ちて
 いく 手のひらの重みが 増して 微かに紅
 い灰白色は 柔らかく蘇生する 微電流が流
 れ 表面に 新しい サヨウナラが 点滅す
 る のを 蓮のつぼみのかたちに 手を合わ
 せて いつまでも 暖める





   粘菌生活

 大峰奥駆道五番関で登山靴の紐が切れる。屈み込んだ
 脇を修験者の影が駆け抜ける。女人結界門が道にたち
 はだかり、女は西の谷へ降りねばならない。 乳白色の
 霧が下がってくる。薄汚れた皺くちゃの油紙を重ねた
 ような老婆の行き倒れか、と見える倒木。その植物遺
 体に鮮やかな黄色のレース編み。カビとも苔ともつか
 ない網状の生物が扇形に広がっていた。

 山のバスはよく揺れる。車酔いに青くなりながらもう
 つらうつら眠る。倒れた老婆が立ち上がり、筋と皮だ
 けになった手を差し出し、しわがれた声で「お前にあ
 げるよ。大事におし。」がたんとブレーキがかかり、
 声のトーンが変わった。「終点です。近鉄電車に乗り
 換えです。」

 家に帰り着き、ニットシャツを脱いで椅子の背もたれ
 に掛けた。肩に黄色い埃。洗濯は明日ということにし
 て熟睡。しかし翌日は雨。そのまま仕事に出た。夜帰

 ると、シャツの肩の黄色い埃はぶよぶよした大型のア
 メーバーに成長しており、暗闇の中で黄色い光を放っ

 ていた。触るとねばねばして指にくっつく。そのうち
 に端が分裂してレースのような編み目ができていっ
 た。そして全体の場所がゆっくりずれる。動いている。
 生きている。そうだ、熊楠の本で読んだことがある。
 動物とも植物ともつかない、生物の振り分けの定義か
 らすでに、いや存在のはじめから、はみ出している生
 物。「粘菌」に違いなかった。

 数日間、シャツの上の粘菌を眺め暮らした。夜中めざ
 めるとほのかに光る。それは命そのものの光のように
 思えたし、またむしろ死へ向かう光のようにも思えた。
 生物である限り何かを食べねばならない。空気中のカ
 ビやバクテリアを食べているのだろうか。鮮やかな黄
 色のレース編み生物は、ゆうに五〇センチ四方を越え
 てシャツ全体を覆っていた。

 雨の夜になった。粘菌を見ながら眠りの淵を往復する。
 足の甲から順に黄色のレース編みに包まれていくよう
 な気がした。粘る湿度が私の身体全体に広がっていく。
 接合の時が来たのかも知れない。もとより私とて、人
 間社会の中でどこにも分類されえない者だった。原形
 質が流れているのか。勢いよく流れる川の音が聞こえ
 てくる。

 突然、突風の胸騒ぎ。私をすっぽり包んだ黄色いレー
 ス編みが一気に、一気に無数の小さいキノコに変身し
 た。

 十一月一日、真夜中のことだ。






   F ・ 昆虫記

 
腰を屈め 拾った棒きれで 鹿の糞を ほじくってい
 る あおによし奈良公園は 麗しき秋 レザングルの
 丘の F 先生の昆虫記の 最初の主人公を 捜してい
 る ぬらぬらと光る 新鮮な排泄物 彼らの食物の小
 山 をつついていると 草むらに光る 一本の指輪
 これは聖なる黄金虫 スカラベ・サクレの護符ではな
 いか そっと指にはめてみた途端 睡眠に突き墜され
 る 幻の向こうで 昆虫の殻を脱いで 乾かす女の
 指にも同じ指輪が 金属の光沢を 放っている

 それは 巨大な 食物の山だった たくさんの女が
 押し合いへし合い 我先にと その山を切り出しにか
 かっていた 何百という数である 大きい人 小さい
 人 肌の色も違い 言葉も違い 年齢も様々な女たち
 が ごちゃまぜになり 共同の食物から 自分のもの
 を切り取ろうと 必死になっている 私も 十分に飢え
 ており 夢中になって 両腕で 掘ってはかき寄せ
 ひとかかえの固まりを 腕とお腹をつかって ぎゅっ
 と押しつけ くるくる回して 丸く形作り そのうえ
 からさらに ひとかかえの 固まりを ぺたぺたとた
 たいて はり付け 一つの大きな球を作った 今頃
 無政府主義者の恋人は 監獄の中で 丸善で買った
 仏蘭西の新刊本 『昆虫の生活』を読みふけり 嬉々
 として 翻訳しているに違いない

 できあがった 私の背丈以上もある 球体は 完全な
 ものに思え これを大事に 持ち帰らねば ならない
 直ちに出発する 頭を下に ブルーのストッキングの
 脚を 球体に掛けてかかえ 逆立ちの格好で いちに
 いちに と手でかわるがわる 地面を押す そうして
 球体を転がしながら 自分が持つ限りの 力と 心と
 知恵と を使って 後ろ向きに 進むのである 球体
 は 芯に熱を持ち 元始 実に太陽であった かもし
 れない

 早く 早く 地中の 棲み家へ 太陽を運び むさぼ
 り喰いたい 元始の 熱 元始の光 何度でも 地上
 に這い上がり 再生するために 汗に濡れた 殻は
 肘掛け椅子に 掛かっている





   タデ科植物誌

  すかんぽ

 
しののめ ほの白い道の向こう 赤いテイルランプは
 曲がっていく 不機嫌な窓 に小虫がとまり あくび
 をかみ殺す 逆光の鳥は黒く羽ばたき デジタルな囀
 りを回転させる 立て膝のペディキュア 新聞配達の
 バイクの音が短く切れながら近付く 空洞が傷つく
 口の中に広がる酸味



  いぬたで


 電波の紅い粒子が 乱れて ケイタイは柔らかく不通
 する 耳を澄ます指先にも 紅い粒子がこぼれて 不
 確かな約束を 知らない国の言葉に 置き換えている



  蓼喰う虫

 
陶器の人形の肌を するりと落ちて 夜更かしな 風
 に揺れる 言の葉にとまる その葉の辛みを 嗜好す
 る志向の 試行する 至高を 私考として 思考する
 夜の 黒い文字が 列をなして またやって来る


                 
―「タデ科植物誌」連作より一部を掲載―


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