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                Collection詩集 Ⅱ



春名純子
春名純子2












































































































詩集 
猫座まで

春名純子
編集工房ノア 20077

晴れた水の上に架けられた橋を
今日は満開の桜の方へ渡ってみようと思う
歩いても 歩いても
出て来た家に戻れないので  
  (「無季」より)


  
   猫の手

 思い出は忘れるように
 寂しさは捨てるようにと
 一匹の猫を手渡して
 あなたは消えた

 今日も五月の風が吹く
 今日生まれた人も
 今日死んだ人も
 罅
(ひび)だらけの流れの
 柔らかな隙間を選って
 生きていた

 ひとりのことばを
 胸から右手に移して
 紙の上に落とす

 毛ばかりの猫の手が
 黙ってそれを拾う





   水底

 魚でも
 心に人が住む時は
 幾重ともない水の輪を
 吐いて潜むに違いない
 人だって
 心が湖になる時は
 青い光に棲みながら
 そんな魚に会えるだろう

 魚の知らない幸せや
 人の落としたかなしみの
 青く漂う水底に
 沈んでわたしは水を見る





   春雨の門

 昨夜 私が踏んだのは子供だったのだ
 目覚めた布団の上に散らばる
 無垢な欠片を拾い集める

 「ごめんなさい」が溢れている今朝の新聞
 あなたも子供を踏んだのですか

 雨煙る春の門まで来たけれど
 靴に凍み入る氷温

 母性よ
 あなたは何処を流れているのでしょう

 降り注ぐ雲雀の歌
 丘一面にれんげ畑
 花の首飾り
 母めいて過ぎた遠い日よ

 今 微かに雨音を傘に乗せて
 ひとり春の門を潜る





   笹を眠らせる

 山で私たちがラブ・レターを燃やした灰から笹が生えた

 笹は二人のスキャンダルを山じゅうにしゃべるので
 私は笹を眠らせようと山に登った

 赤土の山肌を削っているブルドーザーは谷の向こう
 雲は尾根の上を流れて

 風だけが足元のサルトリイバラを微かに揺らせた

 谷を流れる川音に耳を澄ませ山鳩の声を数えるうちに
 私は 用意して来た呪文の言葉をすべて忘れてしまった

 笹は目を光らせて「あなたこそ お眠り」と言いながら
 私の足元の土を掘る

 私の眠りの上には空があって
 空は あの日と同じ白い雲を流している

 笹の背景にも笹の空があり
 空の丸く開いた一点から覗き込んだ笹が口を尖らせて
 「ポウ ポウ」と山鳩のように鳴いて見せ
 私に 数を数えよ と言う

 山鳩が一羽
 山鳩が二羽
 山鳩が三羽
 山鳩が四羽……

 眠りの上の空は今日も明るくて
 切れぎれな白い雲が何處か遠くへ流れて行く

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