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       Collection詩集 U



永井ますみ
永井ますみ3


















































































































詩集 
愛のかたち

永井ますみ
土曜美術社出版販売 200912

第21回富田砕花賞

 今日はを殺す日
 と 決意した とか
 薬を飲ませた上 我が子を海に突き落とした とか
 寒々とした記事が腹を取り巻いていた

  (「新聞の効用」より)

 
 

 

  愛のかたち・ほたる

息詰るような菜の花が咲き終わって、莢が膨らみ、やがて黒い実がみのり、
枯れほうけた茎をみると、もう蛍が湧く時節だと思う。空が薄暗く沈んでく
る頃、私は毎年家内と見に行った淵へ、今年は独りで蛍を見に行く。

蛍の尻が白い事を知っているだろうか、それが夜になると光り始める不思議。
深い淵からそれらは湧き出して、誘い合うように闇に流れていく。私は誘わ
れるように、明滅する光を追って川を渡っていた。

ズボンの裾をすっかり濡らしながら川を渡り、ことさら大きな光に導かれて、
朽ちかけた小屋の窓辺に辿りつく。小窓から覗くと、人の頭ぐらいの大きさ
の、白っぽい芋虫のようなものが数個、わずかに蠢いていて、老婆が独り座
って歌をうたっている。

よいよいよいよいと言っているのか、ほいほいほいほいと言っているのかは
分からないが、それは私の知っている言葉ではないようだ。芋虫のような白
っぽい塊は、すでに手でも足でもなくなった突起をくねらせて、甘えるよう
に老婆に抱かれている。

いびつに伸び上がった突起を宥めて、撫でてさすって、歌を吹きこんでやる
と、その白いものはやがて穏やかに丸くなっていく。たらちねの母という言
葉が不意に私の中に浮かんでくる。対立する男と女ではなく、どこへでも漂
っていくような、私と家内の間に最も不足していた愛の姿だろうか。

蛍も草むらに姿をおとし、辺りは深々と夜に向かっていく。私は軒先で、
徐々に脱力していく。着ていたズボンも服もずるりと抜けていった。分から
ない言葉の力で、私も少し丸くなっていくようだ。塊と魂はとても似ている
と思い、いやここは異常だと思い直す。





  愛のかたち・白い塊

「向こうの世界に戻りたいかえ」と老婆が聞いた。帰りたい?どういうこと
だろう。音声が意味を持ちまでに随分の時間を要した。押せばどこまでも押
され、ぐんにゃりと戻ってくる羽二重餅のような老婆の肌が、私の脳味噌ま
でふにゃふにゃにしているようだった。

答えられぬままに更に幾夜かを過ごした。白い塊のまま、部屋の隅に転がさ
れて、昼にまどろみ夜に謡う暮らし。闇夜には決まって、かつての私のよう
に、茫然と窓辺に佇む人の姿があるのだった。

訪れる魂の数があまりにも多いので、狭い部屋の中は白い塊で足の踏み場も
なくなっていた。ふにゃふにゃ突起を伸ばしながら、いつまでも自らを決め
ようとしない塊たち。老婆の手には余る数の魂たち。「私にも、何らかの役
割を下さい」と声をあげた。

「何かになろうとするでない」老婆はその歯のない口を大きく開けて、珍し
く激した。彼女は魂たちのすべてを。抱えきれなくなって激したのだろうか。
そうではない、わたしの役に立とうという目的意識や、数をこなそうとする
効率主義を指摘したのだった。

私は今まで、何にでも名前をつけることで、本質が分かったと思ってきた。
そして傲慢にも、生きものや思想にさえ、つけた名前に従わせようとしてき
た。鶏小屋には鶏が、犬小屋には犬がいると思っていた。終日、彼等は鶏の
あるいは犬の生を生きていると思っていた。

傾いた小屋の、もの言いたげな小動物らは、帰りたくない人間の、終の姿の
ように思えた。それも良いではないか。何というでもない塊のまま今を生き、
何という名をつけられず干涸びていく。それも良いのではないか。


                 ―「愛のかたち」連作より一部を掲載―





  連凧の風景

早春の浜で
その綱の元を握っているのは
とうに会社をリタイアしたらしい初老の男だった

真ん中に紅い丸のしるしを入れた四角い凧
男は最初の一つを風に乗せる
五メートルも上がると二つ目の
それから三つ目の凧が手放され

次々手元を滑り空に上がっていく凧

百個の凧は
一匹の蛇になって登りつめる
青空の中
ハット神戸と云われているこの浜は
脇浜とも呼ばれ
元は神戸製鋼所があったところ
創業は明治三十八年
この浜に工場が建ったのは大正九年

風に乗って次々に上がっていく凧

戦争があって
空襲があって
朝鮮特需があって

風に乗って次々と順調に上がっていく凧

高度成長があって
日本の狂気バブルの沸騰と崩壊があって
震災で千億円を越す被害を受けても
凧は上がり続けたのだ
風は止むことはなくて

最初の凧が大空に泳ぎ始めた頃
男はまだ影も形もなかったけど
途中から加わった男の働き
ボイラーに火をくべ汗みどろに動き
電気制御のボタンをチェックして回っているうちに
いつしか空には百個もの凧が
列島の背骨のように軋みながら


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