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       Collection詩集 U


三井喬子



















































































詩集 
岩根し枕ける

三井喬子
思潮社 2012年6月

…それまで後頭部にのしかかっていた黒雲と、その時うつらうつら
読んでいた梅原猛氏の本の世界とが、突然スパークしました。
人麿、人麿がいる……。
以来、わたしはキツネ憑きならぬ猿憑きになったのだと思います。

 (「あとがき」より)



  『朝の風景』より

  李下 

明け方の
庭のスモモの木の下に
うっすら浮かんだ人影は
白いその花 だったのだろうか
風邪をひいた人がガラス戸越しに見たものが
さやさやさやと揺れていて

風邪をひいた人は眠れない
さやさやさやと襟元を合わせ
ガラスを透かして朝を見る
事件はいまだ闇の中で
人の心は闇そのもので
鼻をかむ音が世界を破ったのだった

スモモの木の下の白い人は
不意に白い花になり
風邪をひいた人の頬は
帰ってこない人の眼差しに冷える
  (あ その花を持って行かないで!

   誰かが階段を降りてくる
   誰の罪でもないことは
   誰もが負うべき罪である

誰かが階段を降りてくる
頬を打ちに





   『獅子鼻半島 貌』より

  「赤浜」という村

ガラス戸の桟は時代物の木製だ
助手席の彼女は無言で
目を細めている
まるで時間の底を覗き込むように

狭い道だ
曲がりくねっていて
  (赤浜ってこのあたりかしら
地図も見ないで
むしろ光を見てゆっくり走っていると
ガラス戸の桟の砂が赤く火照る
道端の砂が舞い上がる ような気がする

重ねて言うが彼女は無言だ
火のように燃える夕刻の
ドライブの果てはひたすら闇の中なのかもしれない
別れを決めた
そこに何の意味があるかと人は言うが
真っ赤な砂の集落に人影はなく
いまだ窓越しの灯火もなくて
ついつい上がるスピードをそぎ落とし
そぎ落としして冷静を装う

  (もう五時くらいかしらね
  (永遠に四時半だと思うわ

砂の集落は延々と一本道だ
何軒かの家の入り口に木製の丸椅子が置いてあり
その座面から
へたった座布団らしきものが垂れている
昼間
長い長い昼間
老人たちが用事もなく座っていたのだろうか
猫なども傍で眠っていたかも知れない
とても遠い時間がそこに横たわっていたのかも知れない

赤浜という村
冷静に
冷静にアクセルを踏み カーブを曲がると
真っ赤な
大きな貌が中空に垂れていた


赤浜、という村
別れを決めた人と更に別れるのかもしれない砂の集落
バス停の足も砂に埋もれ
もう誰も街には帰れない
波の音がするほうへわたしたちは車を駆る
赤浜、
胸元に ピシリと跳ねるものがあって
一瞬見つめあったわたしたち

わたしたち
永遠の わたしたち

道は曲がっている
鳥居のあたり 石段らしきもののあたり
輪郭の曖昧な石像があって
中空から垂れていた真っ赤な貌は
木々に纏わり 辺り一面に覆いかぶさり
わたしたち
永遠のわたしたち
ボディはもろくも崩れさって
砂嵐の思念のうしろ側で
抱きあっている 秘かに

そこは
赤浜、
という名前の村落だった





   『水底の歌』

   金色の猿が

到来?

夕陽は到来と呼んでもいいか
輝く金色の猿の出現
キキと降りてくる湧いてくる

猿よ と呼びかけると
歯を剥き出して

猿が湧いている
男の人が着物の裾に猿をぶらさげて庭にいる
哀しそうな目
早く家に入って! と ガラス戸の施錠を外すと
危ないから開けるなと言う
どこからでも入れるように
すべての突っかい棒や錠を外すのだが
その人の前だけコトンと閉まる
哀しそうな目をうるませて突っ立っている 猿をぶらさげて
この庭先に


ガラス戸の外の黄金色
猿が頭にかぶりついている
男の人が 小さな声で
助けてください と言う
猿の歯が食い込んで 額に血が流れている
それを沢山の猿が舐める
舐めているのだ それを
早く入ってきて!
開けられぬ戸に隔てられても
恐怖心において
二人は、
等しい、
叫ぶ、
助けて!

泣きながらもバットで殴る
ガラス戸を

わたしたちは等しい
その痛みの感受において

  (助けてください
   助けて……
割れたガラス戸から
ところどころ血の筋のついた夕陽が入り込む
おお わたしを貫くものよ!
ぼっ ぼっ と
隣家も赤く燃えている





   夜へ

隣家の屋根の棟の上を
つるつる走り
座り
蚤を取り 取り合いながら
金色の猿たちが掻きまわす〈猿たちの時間〉
屋根の上の横柄な〈時間〉
この家はすでに水の底にあるが
隣家は現在的に火事だ
金色の猿たちが掻きまわす〈終りの時〉にある
火事だ 火事だ!
見さげられる〈寂しい生き物〉
としての わたしたちに
いま 寂しさは到来し 増幅する
夕陽に焼き残される肉片のように

わたしがあなたで
あなたがわたしであるような
あったのかなかったのか不分明な
寂しい時間が
熱い
燃えているのが寂しいのだろうか
燃やしているのは猿かわたしか
そんなこと関係ないと
金色の視線が蕩揺する屋根の上の
棟瓦を跨いだ猿の
注視と蔑みが 寂しいわたしを生焼けにする


屋根は〈保護〉の象徴であり
〈呪詛〉の場所でもある
と わたしは思う
金色の猿が
その意志がわたしたちに滅亡を強いたとき
柩のように家は燃え
わたしたちは
真裸の聖なる肉塊である
  (さまよい、と言ってもいいかも知れない
   横断する
   その 固有名詞

永遠に臭うのだろうか
生焼けのわたしたち
いまだ音たてているわたしたち

遠くで誰か泣いている
水底の寂しい焼け跡から
夜へ 行く

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