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         Collection詩集 U


柴田三吉






詩集 
旅の文法

柴田三吉
ジャンクション・ハーベスト 2018年5月
52回小熊秀雄賞

おはなしの消えた場所には
だれも入ってはいけないという
ひとも リスも クマも
鳥たちも
    (「椎の木林」より)


   靴を洗う

その地から帰って靴を洗う

夜半 風呂場にかがみ
洗剤をつけた歯ブラシで
こまかい土をこそぎ落とす

見えないものを含んだ土

タイルをスポンジで磨き
頭からシャワーを浴びる
見えないものが付着した髪を丹念に洗い
つねとは異なる泡を流す

水は渦を巻いて排水口に吸い込まれ
多感な海に注がれていく

暗い家の中 灯りをともし
小さな影を映すわたしは
罪を犯したのか

(夜の向こうの見えないもので覆われた地)

帰らない人がいる
帰りたいのに帰れない人がいて
仕方なく帰る人がいる

その地から戻るたび 靴を洗う

見えないものはいつか
見えるものになるのだろうか
わたしたちを感光版にし
黒い光の粒となって



  大根だかゴボウだか

あしたから大根の引っこ抜きやな
若い男がため息まじりに言った

大根じゃないさ ゴボウだよ
手もなくするっと抜けるさ

なに アスファルトの上やないか
南瓜をほかすのとおんなじよ

鉄砲もってるわけやなし
非番にはビーチで日光浴や

仲間たちにハッパをかけられ
男は小さな窓から眼下に輝く海を見た

   *

てっぺんからの強烈な太陽だった
熱湯みたいなスコールが背を叩いた

頭も腰もネジが飛んだようにぐらぐらしたが
屈強な男たちは力のかぎり
大根だかゴボウだかを引っこ抜いた

大根もゴボウも茎や葉が縦横にからみつき
アスファルトの下から太い根っこが
ずるずる這い出してくる

その夜 男は打ちひしがれ
かたい寝床で丸くなった

(島を引き抜くような重さだったじゃないか)

手のひらから引かない脂じみた汗
怒りには慣れているが
悲しみはつかんだことがなかった



  旅の文法

はじめて訪れるとき
ただひとつの文法を覚えていった

トイレはどこですか

知らなくても死にはしないが
迷路のような路地を駆けずりまわり
途中で力尽きることもない

たったひとつの文法で
いくつもの場面に応用できる


バス停は 郵便局は 薬局は
市場はどこですか

けれど忘れると
いのちにかかわることもある

ちいさな木橋 レンゲの野を一歩越えたとたん

寒さをしのぐテント
かわきを癒す井戸 シェルターは
境界線はどこですか

歩き疲れた山里で

門前の夕暮れを掃いている少年僧に
たずねてみる

愛はどこですか

彼は一瞬 箒の柄を見つめ
はにかみながら
自分の胸を指すのだ




  草の戸

黄金のワット・プラケオ
巨石を積み上げたアンコール・ワット
どれも 顎をはずして
見上げるようつくられた寺院

いつからか大きなものの下に立つと
深いため息が漏れるようになった
大きなものは人間を小さくする装置

人間がちっぽけなことは分かっているさ
でもそれは 人間が人間を
ちっぽけに見せるための仕掛け

てっぺんから見下ろしているのは
この世の力を誇示するものたち

もとより祈りは神殿も楼閣も欲しなかった
古の寺院は緑陰で営まれ
その影をはみ出さず 大きさも広がりも
心ではかるものだった

いかなる力からも遠くあれ
いかなる高みにもおまえは指をかけるな
菩提樹の下でまどろむ僧から
まどろみのなかで受けた戒め

バベルの塔が天に届かなかったように
過剰な望みは頂に届かず
時の一息で崩れ落ちていく

けれどそこは
廃墟ではなく緑豊かな地
香り立つ葉叢をかき分ければ
小さな世界の戸口が隠されている

近ごろ遠視と乱視がまじってきた想像力
細い蔓に縁取られたレンズを頼りに
わたしは草の戸を開き
額を伏せて入っていく


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