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詩集 桃源
柴田三吉
ジャンクション・ハーベスト 2020年6月
人界を離れた
まじり気のない笑み
たいらな時の水盤を あなたは
夢見心地にたゆたっていた (「桃源」より)
鳥語
まっくらな鳥がのどに棲みついて
母は鳥のことばをしゃべるようになった
クエ
クエ
なにとも知れぬ鳥類のことばで
朝に夕に そう繰りかえすのだ
夏の盛りというのに
仏壇に供え物が積み上げられていく
日ごとラップの内側で崩れていく
団子や水菓子
クエヨ
クエヨ
生きている者が萎びていくものを
食べなければならない
生きている者が饐えていくものを
食べなければならない
ものが分泌する甘酸っぱいにおいに
喉がつまり 声をうしなう
唾をため 呑みこんだふりをし
いただきましたと懐にかくす
熱風のなか腐臭をまとって歩くわたしを
人はいぶかしげに振りかえる
クエヨ
クエヨ
母に似た鳥が畳の目をひっかいて
わたしの喉からことばをひきずりだす
クウヨ
クウヨ
緒
へその緒が出てきた
半紙にくるまれた
一房のうぶ毛とともに
こんなものが と
桐の箱を膝に置く
わたしたちをつないでいた緒です
手のひらにのせ しげしげ見入る
その日々を思い出したのか
緒は ぴくんと脈打ち
赤黒く膨れる
身ふたつになって
わたしたちはべつの時を歩み
あなたはいつしか
この世の果てまで旅し
なおも旅の果てを生きていて
とろりと居眠りをはじめる
むかしを噛んでみる
歳月は無味無臭で
するめの脚のようにかたい
帰り道 ペダルを踏みそこなって
脛をしたたか打つ
涙とともに 舌の裏から
なつかしい味がよみがえる
夕暮れの 紐のような
仮定法
見合いの席で 父は
一度も立ち上がらなかったという
戦争末期 ともに二十六歳
男たちは鉄の熊手でかき集められ
女たちはからの米櫃を覗きこんでいた
あの人は厠にも立たなかった
背がたりないのを隠したかったのよ
とうの昔に逝った人を母は笑う
五尺に満たない体 強度の近視
どん欲な戦争でさえ箸の先ではじく
残りものだった
それは父にとっての幸い
焼夷弾が降りしきる夜
闇をひっかぶって逃げまわりはしたが
殺し合う地獄からはまぬがれた
それは母の幸いでもあった
思い寄せた人 親兄弟とも死にわかれ
戦争はいつ終わるか知れず
ひとりぼっちの二十六歳だった
残りものどうし
戦後の水たまりを這いずりまわるうち
心添わせて三人の子をなした
その昔 父が厠に立ったとしても
わたしは生まれたろうか
生まれたのだろう
すこやかな死者
生きているものたちが寝静まって
ひとりクロスワードパズルを解く
タテの鍵 57 5文字
ヒント「鬼号とも言います」
棺の窓を開け さて何でしたかと問えば
あなたはヨコの鍵となって
うすく微笑んだままだ
ああ「カイミョウ」でしたね
と 空いたマスを埋める
おはようと言って雨戸を開ける
春の明るい日差し 甘い風
花瓶に挿した桜が数輪ほころびている
口元が少し縮んだように見えるが
すこやかな死者だ
――法名 釋尼花優(しゃくにけゆう)
鬼号だなんてね
花子さんおはようと声をかけ
線香を点す
午後 ドライアイスを追加
頬がいちだんと冷たくなる
寒くないですか
三晩と四日 母と暮らす
三度三度食事を整え
急ぎの仕事に向かい 本を読む
暦の用をつつがなくこなし
ときおり弔問客を迎え
ありし日の話を聞く
三晩と四日
これが常の営みと思いはじめたころ
かえすときがやってきた
どこへ どちらへ
火の向こう ことばの裏側へ
この世のものならざるものとなって
家に戻れば 一枝の桜が
満開だった
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