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     Collection詩集 Ⅱ  


橋本千秋


















































































詩集 
夢の箱

橋本千秋
編集工房ノア 2015年8
 

逝く人が残した言葉や目差しは、思い出す度に、これから往く
世界を気づかせ、想像させてくれました。この世界もまた、
目を開けると懐かしい人たちがいて、夢を見ていたんだよ
という日まで、さめない夢なのかもしれません。
 (あとがきより)


                





   春の昼

止めていた車のフロントガラスに、桜の花び
らが落ちている。エンジンを掛け、散り始め
た桜並木を抜けると広い道路に出る。昼下が
りの街はぬるんだ空気に霞み、アスファルト
がゆらゆら溶けていく。眩しくて目を細める
と、前を渡っていく人たちがいる。スキップ
をしながら女の子が、乳母車を押した人や日
傘を差した人、犬を連れた人が渡っていく。
気づいたのか手を振る人がいる。いつか私も、
あの中のひとりになって、手を振りながら渡
っていくのだろう。車を止め、渡っていく人
たちを見送る。消えた空のあたりから花びら
が落ちてくる。




   朝

近づくと、すーっと開いた自動ドア。思わず
外に出てしまったけれど、振り返ればまだ皆
部屋の中にいて。今なら戻れそうな気がして
瞼を閉じても、夢のドアはもう開かない。




   観覧車

長い列の最後尾につくと、母は乗車券をバッ
グに仕舞い溜息をついた。四十分待ちと聞い
て、父と弟はジェットコースターの方へ行っ
てしまった。妹と私は初めて見る観覧車に手
を叩いた。列はゆっくり進んで行く。バナナ、
ナベ、ベンチ、妹と二人でする尻取り遊び。
前を見る。チンパンジー、ジュース、オシッ
コ。えっと母が妹を覗き込む。我慢できない
のという声に頷く。
ガチャンとドアが閉まった。観覧車が上がっ
ていく。長い列の横を母が妹の手を引いて走
っていく。角を曲がると建物の中に消えた。
上へ上へと上がっていく。山の向こうに海が
光って見える。下を見ると、入口で見た案内
図と同じ風景が広がっている。その時、観覧
車がぐらりと揺れ、思わず目を瞑った。
揺れが止むとゆっくり下り始めた。音楽や人
の声が聞こえてくる。観覧車が止まった。外
に出ようと立ち上がる。どうしたのだろう。
ドアが開かない。人混みの中に母がいる。早
く出してと叫ぶ。係員がドアをこじ開け引っ
張った。外に出ると大きな声で泣いた。母は
駆け寄ると抱き上げ、見守る人たちにいった。
生まれました、女の子です。




   標本箱

家に帰ると庭先に兄の自転車がある。開いた
玄関から話し声がする。薄暗い土間に母と兄
が立っている。裏口に回る。音を立てないよ
うに階段を上がる。採ってきた蝶は動かなく
なった。兄は上がって来ない。下を覗くと、
一緒に連れて帰ってこなかったのという母の
声がする。階段を下りていく。爪先に何かが
当たって土間に落ちた。その音に母が振り返
り、俯いていた兄が顔を上げた。壊れた標本
箱。散らばった蝶に兄が駆け寄る。

あの頃と何も変わらない古い家。父も母も写
真の人になって、中学生の兄の横に並んだ。
今日も蝶が入ってきて土間にいる。玄関を出
ると、兄が自転車を押して、どこまでもつい
てくる。




   ターミナル

落ちましたよの声に目を開けると、手に持っ
ていた切符が座席の下に落ちている。拾い上
げると水に濡れ、行先が滲んでいる。先に行
って待っているからと家を出たけれど、電車
はどこへ行くのだろう。橋を渡っていく音が
する。

ターミナルに着くと、待合室のベンチに母が
座っている。待っていたのよといって手を取
る。どれ位話をしていただろう、アナウンス
に、もう行かなくてはと立ち上がる。先に行
って待っているからと来た電車に乗り、ガラ
ス越しに手を振る。出て行く電車を見送る。
次の電車はいつ来るのだろう。

   

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