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Collection詩集 U        



倉橋健一


















































































詩集 
唐辛子になった赤ん坊

倉橋健一
思潮社 20142

なにやら固いもののはじける音がした
と、気をとられている隙に
何を探していたのか忘れてしまったので
もう十年ぐらいは生きて
若返りに精出さねばなるまいと思った  (「糸ぐるまをまわすまで」より)

 

 

  おばばの美しい話

恐ろしいのは風下
(かざしも)じゃよと
キリンになった経験をもつおばばは
耳朶を唇に吸いつけると唾を呑みこみながらつぶやいた
ずるずると首がのびて
山裾までは一目瞭然じゃったが
夜ともなると見えないから始末にわるい
風下からは忍び寄る怖い奴の足音も匂いもせん
んだから賢こい肉食獣になればなるほど
そこからばかり襲うてくる
ひとったまりもない
いのちを開けっ放しにしてたのも当然じゃ
おまえの父御
(ててご)もそうじゃったぞ
風下から飛んできた爪の一裂きにやられて背髄がのうなった
おかげでおまえは父
(てて)なし児じゃ

キリンだった頃おばばはまだまだ生気に溢れていた
座ると首をば後ろにのけぞらせて
頭をば腰のあたりに乗せて
ゆらりと眠った
臆病な獣たちはみな風下にむけてたったまま眠った
じゃが、とおばばは居眠りしながら回想する
わしは人間の知恵袋を持っとったから
そこはひるまぬことが一番じゃと思うたもんじゃ
せわしげじゃったが疲れは知らなんだ
そうじゃそうじゃ疲れは感じるまいと思ってもいたもんじゃった
あんなに長い首の先っぽに目ん玉も口も鼻もついていたのじゃから
つむじ風に叢が揺れるはるかかなたも一望できたが
そこから伝わってくるものは危険信号ばっかりじゃったぞ
それでもわしは首をば後ろにのけぞらして寝た

(かか)さまは産褥でなくなったので
わたしはおばばの手ひとつで育てられた
キリンとして育てるか人として育てるか
まだ若かったおばばはたいそう悩んで
眩暈の日々が長々と続いたそうだが
決め手になったのもやはり風下の経験だった
警戒ばかりでは退屈な食われてもいいから眠りこけろと
ええいとばかりに世界
(まわり)を無視すると
イシガメそっくり
這い這いしている無警戒なわたしが視野に入った
のろま奴! そいじゃにんげんに育て父御のように死なせるか
ときめたのだと
そこからは滴を垂らすようにキリンの長い暮らしについて
ゆるゆると語ってくれたのだった




  誕生

老いた駅夫がしわがれた声で駅名を連呼するが
木棚のところではじけとんで
こちらまでは届いて来ない
わたしはずっと前から
アブラゼミになったり
シオカラトンボになったり
ヒキガエルになったり
そのたんびに棲み分けながら
ただ周りは見渡すかぎり田畑で
山裾辺りにわずかに藁葺屋根の家があって
もしかしたらひどくむし暑い夜に
その辺りで生まれたのかもしれないと
かろうじて記憶のとだえる一歩手前で
終日漂っている
ともあれまだ死者ではない
里山で健げに生きているもののひとつと
居直ってみると
駅の名を聞き取れなかったことが
敢然と悔やまれてきた
シオカラトンボになって
駅夫の帽子にとまってみる
アブになって
耳朶のあたりを飛んでみる
彼は残り少ない錆止めペイントの缶をもって
線路伝いに
転轍機
(ポイント)整備にむかうようだ
先回りをして
灼ける鉄肌にとまっていると
筋肉が熱くなって
人にもどる気分にさえなってきた
ああそのときのわたしは終齢幼虫で
一円玉ほどの小さい地面の底から
けんめいに顔をのぞかせて
薄暗くなった地上に這い出て
幹につかまり
むし暑い夜
藁葺きのこの家の辺りで
羽化したのだった
聞きおぼえのあるしわがれ声
薄明りの窓ごしに嗅いだ汗の匂い
なるほど長い地底生活は終わったが
すべてはまだ羨望のなかにあった




  生きる

老いさらばえ唐辛子になった赤ん坊
罅が入った浅いカリガラスの皿に
レタスに包まれよごれている
軋る音にも気づかない
落ちてきた雷鳴
(かみなり)も天窓でにやりひと休み
山姥に似た目つきでしきりに覗き込んでいる
ああ何という長ったらしい退屈だ
としどけなく醒めている
日が沈み(おきまりの)闇になる
寝息までもが老いさらばえている
静寂もついには溜息と言葉を替える
完全不完全燃焼のまんまの雷鳴
に映される赤ん坊そのときばかりはほんとうに翁になる
老いさらばえて無機物になりつつ赤ん坊
罅の入った浅いカリガラスの皿で
レタスに包まれ仮死状態
そりゃもう老いさらばえるほど眠ったのだから
赤ん坊の睡り時間としてはギネスものだ
赤ん坊だって歳はとるものよと言いたげに
それでもたしかな寝息をたてる
ああ終末! 九百三十歳のアダムの死など簡単に越えて
さて、目撃者に任命されたわたしの困難が
このときからはじまる
入れ変わりたい妄想に駆られはじめる
すでに睡っているのはどちらなのか
わからなくなるのもま近に迫っている



  
船霊(ふなたま)

夕暮れの弱い日差しが
ペーパーフラワーの蕾を染めあげている
小さく白く涸びた身体が
こころもち壁側をむいている
――どう、ぐあいは
ひたいを軽くつついて私がいう
来てくれたか、と顔だけをかろうじて仰向けにする
熱もないし脈搏もそんなにかわらないのに
せいせい呼吸困難の日が続いている
酸素管を鼻に差しこみ
おかげで鼻のなかが荒れてしまったので
赤ちゃん用の柔らかい塗りグスリを用意してください
と介護の人にいわれた
終わりをの日がめぐっている
一世紀に近い生涯が
熟し柿が落ちるようにいま尽きようとしている
私は
マストの先端からまっ逆さまに落ちる水夫は
過去全生涯の夢が擦過するのをことごとく見るという
心層の伝説を信じている
三十歳に充たず戦さ場で倒れていった夫にもすでに会っているか
そういえば夕べはムスメがいっていた
――帰ろうとするとね、おばあちゃんわたしの手をしっかり握ってね、
ものすごい力で
放さなかったよ
その夜
私は海上にむけて船から去る媼の夢を見た
私は船頭だった
船霊が去っているのだと
黙って背中を見ていた



  

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