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Collection詩集 U        



倉橋健一


















































































詩集 
失せる故郷

倉橋健一
思潮社 20178
第55回歴程賞

じきと呼ばれる男が
わんという名の女と結ばれることになったので
祝いましょうと案内状が届いた
雪崩の音も止んでいよいよ明日は吉日らしい (「錯誤のあとは」より)

 

 

   
   素朴な直喩
              ――サイの角のようにただ独り歩め(「スッタニパータ」

そのときまだ若い一頭のインドサイは
もの憂げに泥まみれのままいっぽんの角を高くかかげて
罅だらけの甲冑もどきの皮膚に被われた巨体を
まるごとかすかにわたしのほうに向けたかに見えた

でもそうではなかった わたしの背後では折から
すべての湿原を赤々と染めあげた夕照が
おもむろにその日の役目を閉じようとしていた
かれはわたしの身体
(からだ)を通過させながら彼方への直線を企てていたのだった

戦慄など寸毫も入り込む余地のない
かぼそい視力がけんめいに独り歩きをしているのだった
虻の群れが横切ろうとも微動だにしなかった

いつのまにかわたしのなかではあのいっぽんの角だけが引き受ける
乱反射の意味がわかる気がしていた サイはたちつくしているだけだった
まさに素朴な直喩が使われ切ろうとしていた




   我田引獣

トムソンガゼルに似た野性味たっぷりの小娘が
私が丹精こめた小さな花園でつむじ風になっている
往きすぎてしまえばよいのにもどってくる
そのたびに私のほうは
慣れてすっかり諦め顔浅瀬にいる気分でいるが
晒される花たちは散るか毟られるかの瀬戸際に立たされて
懸命に風向きに歩調を合わせ揺れている

それにしてもトムソンガゼルに似ているとは
なんとも乱暴で怪訝な比喩なんだろう
ここはモンスーン地帯アフリカの草原ではないのだから
御門
(おかど)違いもいいところせめて
あざやいだ手技
(わざ)をもった花盗人紛(まが)いぐらいに修正すべきではないのか
と声質だけならそっくりそのまま自分の声が鳴り響く
なるほど分別を失うとこれくらいごちゃになることもあるもんだ

ほんとうのトムソンガゼルは逃げ足ばかりが素早い
無理もない襲われるのが宿命の草食獣だから
そういえば未生の思い出にたとえば幼い母親から
まどろみのなかで聞いたとおい記憶のなかには
似たような獣が何種類も棲んでいた
はてのない物語にはいつも魅惑的な混沌
(カオス)が漂い
何があっても目くじらを立てる影すらなかった

つむじ風が来ないのに突如花々が萎れることがあった
<
>に置き換えるなら死んでしまうことだった
悪寒に震える雹が乱れ降る凶作時間
私はうなだれ四季の生む富のことなどもとうに忘れはてていた
そんなときにかぎって餓死線上の花園には昏
(くら)い硬いラインが射し
ラインに沿って
記憶のなかの物語がつかのまひとつずつ閃いた




   そのあとへ夏がやってきて

その頃
玄関脇には(どの家にも)
防火用の水槽が置いてあって
夏場になると孑孑
(ぼうふら)が涌いて困るので
お魚を飼ってもいいよといわれて
幼いぼくはおとうとの手を引いて
睡蓮が咲き乱れる森の池に
勇んで小鮒釣りに出かけたことがあった
おとうとは小さなバケツと虫かご
虫取り網も持っていて
淵にいるメダカや小エビは掬うつもりだった
梅雨のはじめ、空一面厚い雲が覆っていたが
雨の心配はなさそうだった
それにしても昼下がりなのに昏
(くら)い靄につつまれて
たくさんの蚋
(ぶよ)につきまとわれたのには往生した
渦巻くように露出した肌のまわりに群がるのだ
半袖に半ズボンの誤算
あっというまにとんでもない不快な気分に攫われて
釣りどころではなくなって
この場を逃げ出ししかなかった
湿った空気のせいだと
半泣きのおとうとの顔をもてあましながら
ぼく自身も途方にくれながら思った
そんなことに頓着しないで
紅白に睡蓮は咲き乱れ
ひげ根のあいだを縫う魚影も妖しいほどに元気だった
人っ気はなかった(が、慣れた友達といっしょに来なかったことを悔やんだ)
しーんと静まり返った水面にヒヨドリのかん高い鳴き声が谺した
自然の無邪気ないたずらに振りまわされたぼくらは
あとはむっつりだまりこくったままで
とぼとぼと引きあげた
まもなくまちなかに帰ってくると
おとうとはもう上機嫌だった
いつどうして手に入れたのか
虫かごには一匹のタマムシが入っていて
ぶーんぶーんとかごを旋回させた
そのあとへ夏がやってきた
つぎのつぎの夏には
わが家
(や)も水槽もまちなかの何もかもが
廃墟になっていた




   別れの歌

宵闇 にわかに雲が湧いて
親しみ深いお月さま

空のあちらがわに攫われてしまわれた
しかたがないので今宵はあきらめて
でもまたきっとお会いいたしましょう
翌日には暁暗に夢を見た
人っ気のない落ち葉の舞い散る山裾へのいっぽん道を
おさげ髪のうら若い未来の母が歩み去っていた
声も出せないで立ちすくんだままでいた
せめて哀しみだけは記憶に留めて置きたくて
起きるとすぐ言葉にむかうのだがうまくいかないうちに正午になって
またもやお月さまとは縁遠い時刻になってしまった
でもまたきっとお会いいたしましょう

  

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