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Collection詩集 U         



草野信子


















































































詩集 
持ちもの

草野信子
ジャンクション・ハーベスト 20212
55回日本詩人クラブ賞


 傷あと というが
 どこにも
 あと はなく
 傷だけが あった
        (「ガマ」より)

 

  

  持ちもの

とるものもとりあえず
子ヤギを運ぶ麻袋に あかんぼうを包んで
ただそれだけを胸に抱いてきた

テントの三つ目の夜 眠らない子の耳に
草摘みのうた 歌い
砂の降るおはなしを ささやいていると

おさないいのちのほかは
何もかも残してきた故郷から
ことば だけは
持ってくることができたのだ と気づく
荷物検査所でも まさぐられなかった
わたしの持ちもの


のばした脚の指さきが
ひんやりしとした皿のふちに触れる
せまいテントに
幾千万のことばは
小さなひとのすがたで横たわっている
深く 果てしなく 生あたたかい容れもの

必ず 生きのびよう と思う




  教室

それは
遠い日の やわらかなひかり

先生は 黒板に 日本国憲法 と書いて
その横に 三つのことばを書いた
ガラス窓から射しこむ ひかりに
ほこりの粒子が舞っていた 六年生の教室
戦争をしない国になりました と 先生が言った

それは 声

英単語の練習 数学の問題 漢字練習
朝の十分間の 自習時間
木曜日は 日本国憲法 を 少しずつ読んだ
ときどき 先生が来て ゆっくりと音読してくれた
社会科は 憲法を読んでいこう
そう言った 担任の先生
わたしたちは 練習問題に飽きた十五歳だった

それから
それは ことば になった

子を産み 育て 父を見送り 母を送った
一生 と呼んでたがわない 年月に
それは 開くことのない本のなかにあったが

遠い日の やわらかなひかり
朝の教室の 深くあたたかい声

書きかえよう としているものが
ことばを 削り つけたしているので
残りの生の日々 日本国憲法 を 少しずつ読む
ときどき 先生が来て ゆっくりと音読してくれる




  戦争責任

義母
(はは)は 六十を過ぎて
菜園の土地を借りた

鍬を じょうずに使った

運動場を耕して
芋や豆をつくったから と言った

戦時中 義母は
国民学校の先生だった

こどもたちに 水を運ばせ 苗を植えさせて
ほかには何も教えてやれなかった 一年生に
は軍人手帳の紙を折る作業があった お国の
ためにきちんと折りなさい 六歳のおさない
指に そう言った 戦争に負けて 校舎裏で
書類を燃やした 教科書に 墨も塗らせた

あげれば きりがなくなる
それらは わたしの恥のようなもの
罪のようなもの

ふたりで 土に腰をおろすと
義母は そう言った

戦時中 二十代の先生だった

恥ではなく 罪ではなく
それは 深く負わされた傷であったのに

義母は
あやまちを詫びながら
ささやかな日常を 毅然と生きて
ひとりの<戦争責任>を果たそうとした




  風の吹く日々

朝 新聞受けのうえに
ひとひら ふたひら
降りていた はなびら

風にはこばれてきた
お寺のうらの
保育園にある さくら

こんなに はなれたところまで

社員寮の 台所から
コリアンダーのみどり
ヌクマムの匂いが ながれてくる

工場は 三日間の休業らしい
ベトナムから来た若者たちが
故郷を 調理している

風がはこんでくる
ハノイの 路地に降る雨
遠い日の旅の記憶

見えるものも 見えないものも
同じ旋律をくりかえしている
サックスの かすかな音も

風ははこんでくるから

たとえば
成層圏を吹く風
と いったことではなく

わたしの足もとから
川沿いの鉄塔の てっぺんまでの高さほどを
水平にながれていく
暮らしに吹く風に
窓をあけている

はなびらの 指あと
水ぐすりみたいな 香草の匂い
それから 吹奏楽部希望の高校生
たぶん まだ 入部届は出せずにいて

見えるものも 見えないものも

かくれているものと かくしているものと

なにが はこばれているのか
風も わからないもの と

  

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