夜凍河 19






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      黒いカスタネット
                      
滝 悦子


   長距離列車の 通路をはさんだ座席で 生徒会長が窓にもたれて
  眠っている 若い日に死んでいるのにいまも明るい寝顔だ 議事録
  の清書がまだできていないと言ったので 待ちくたびれたのだろう 
  ほんとうは 恐竜と怪獣の区別がついていない などと とても言
  えないから うめあわせする気分で ずり落ちた背広を肩にかけた 
  前方のドアはぴったり閉じたまま たぶん背後のドアも 振り向か
  ないことが礼儀だが 両側の窓の外を夢のようなものが飛びすぎる 
  これから夜明け前には乗り換えて ツートンカラーの優雅な一輌め
  に乗る そのために仕事をやりくりして 大枚をはたいたのだ  
  もうどのあたりだろう 
   一時預り所はこちらです ホームのかぼそい灯りの中から声がし
  て ここで会う約束があったことを思い出す 長い通路を進んでい
  るうちに 足元の深いところで列車が動き出す気配 みんな行って
  しまうが あしたの同じ時間に戻ればいいのだ と言い聞かせる
  その人が指定した場所は うす曇りの午後だ 時計も温度計も湿度
  計も鳩さえデジタルで ずいぶん高飛車だ 私はその人を知らない 
  風まで湿っぽい広場はがらんとして 電報をよこしたその人は ほ 
  んとうに私がわかるのだろうか 
  どうもどうも 知っている気もするおじさんが 汗を拭いている 
  どうぞどうぞ おじさんについて五段きりの階段をあがると 木の
  名札が ずらり 墨の黒さにどぎまぎしている私に 二度 うなず
  いてみせ 慣れた手つきで名札をめくっていく 下のほうは文字が
  かすれ もっと下は古いベニヤ板のように反りかえり 壁に近いも
  のはシミになっている 何列もめくっても見当たらず おじさんの
  額に西日が光る 私は目だけを動かして灰皿を探す あったあった 
  私よりも嬉しそうなおじさんがそっと手渡してくれたものは 軽く 
  あまりに軽すぎて 目の奥が湿っぽい
   通りはすでに西風に変わり 看板もくすみはじめている 路地に
  入れば近道だ と思いついても 路地の入り口はどこもヘタな字で 
  パスポート要 困ったものだ 舌打ちしたい気分でいると やけに
  手足の長い女の子たちがやってくる 駅はあちらでしょうか 指さ
  して尋ねるが 指先にむかっていっせいに早口で喋るので 指紋が
  疼くばかりで よくわからない 首の付け根がずれている女の子も
  いて どこから来たの? とも 黒いカスタネット とも聞こえ
  彼女たちの小さな唇の形の良さにみとれてしまう 裸足の女の子が
  指さしたのは 拡張工事が終わったばかりの新しい道 きっとアス
  ファルトは軟らかいのだろう さようなら と言いかけると 女の
  子たちはもうウインドーの中で すましている
   右 と感じたら左に行くのが正しい 方向音痴の心得だが間違え
  ることもある 川幅は微妙で 落ちたら死んでしまうのに 腐った
  板切ればかり渡してあって どうしようもない 迂回するバスには
  もやもやした人たちが乗り込んでいる 錆だらけ 穴だらけの車体
  だが ボンネットを開ければエンジンはピカピカだろう あの岩山
  を登っていくのだ 身を乗り出した運転手が手をかざすと バスの
  中でも空気がうごめく気配 私には見えない狼煙があがったのだ
  高く 翳りのない空に吸い込まれそうで ガシガシと地面を踏みつ
  けていると 乾燥地帯の強い訛りで いよいよですな 私もそんな
  気がする スニーカーを買わなければならない 
   エレベーターは音もなく降り B6 最後の表示を過ぎてもまだ
  降りて行く じっとりした坑道でツルハシをふるったり 半裸でモ
  ッコを担ぐ人たちにまじって あの人も熱心に掘っている 近づく
  私に こわい目で首を振った 私はなにか言おうとして 周りの人
  たちが永遠に聞き耳をたてているので やめた ぐずぐずしながら
  背をむけると 人々は動きを止め カナリアは急いで羽を畳んだ 
  あの人が残していったものを拾おうとするが 触れないでください 
  プレートにそう書いてある
  両手をポケットに入れたまま まだなにも数字の点かない表示板を
  見ている わかっているよ あの人も そう言ってくれるだろうか 
  改札は中二階にある





                              










     夜凍河19 2011.05 
 滝 悦子  黒いカスタネット  午後のかたち







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