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       Collection詩集 U



松川穂波

松川穂波2






























































































































詩集 
ウルム心

松川穂波
思潮社 20097

人の存在は、時に、手に入れることのかなわなかったものによって最も強く
照らしだされる。つらい認識法だ。同時に、その光が思いもかけぬ暖かさで
人を見守っていることにも気づいていよう。
(あとがきより)


 

   異国のあいさつ

 言葉を知らない
 地理を知らない
 まして木の名前など
 挨拶がわりに 幹を叩く
 はねかえされる
 指先でそっと押す
 かすかに押し返してくる気配
 あかしあの(まろにえの けやきの あるいは)

 わたしは旅の者 ここいらを通り過ぎる
 雲
 いえ
 旅の中をただ運ばれてきた
 荷札のような者です

 名乗れば
 木のかわりに
 曇天が 白いものを降らしてよこす
   気ガネハイラナイ
   存分ニ明滅サレタシ

 ひらひらと雪が降る 
 天の白い荷札
 わたしの肩にとまる
 消える
 これも須臾の明滅として

 ここいらを過ぎ
 ひたに名乗り
 木の幹を叩く
 門のように
 叩く
 明滅すれば
 わが体内に樹液はめぐり
 交わしあう錯誤もあるだろう
 ぐい
 と 歩き出す
 木の名前は知らずとも
 木の名乗りは聞こえずとも





  いつものバーヘ

 微熱がひたいの裏側をあぶっている
 いつ来てもひっそりとした待合室
 片隅の人体模型が頭部をかしげて
 ものおもいに沈む
 よれた白衣のような
 よどむ夕暮れ

 巨体に黒い眼鏡をかけた陽気な二代目院長は ただの風邪ですよ と言って
 かしこまるわたしを安心させた そしてインフルエンザの発見とその歴史につ
 いて 身振りをまじえて話しはじめた ころころとした指が顕微鏡になり 死
 体を埋めるスコップになった やがて 話題を第一次世界大戦にうつし (二
 代目院長はウイルスより戦争のほうがお好きなようだ) ドイツ軍の塹壕のな
 かの兵士が銃をかまえるポーズをとったとき 女性看護師が次の患者のカルテ
 を そっとさしだして 戦争はいきなり終結

 散薬をうけとり
 微熱のままの街を歩く
 高層ビルも並木も
 ゆらゆら揺れる
 海に沈んだアトランティスを
 思い出させる
 (その空には飛行機が飛んでいたそうだが)
 どんな文明も
 静謐で純粋で戦闘的な
 ウイルスには勝てないだろう
 創造主のさびしさが
 脳内をかけめぐる
 すっぱい夕暮れ

 わたしは 財布を待合室に置き忘れたことを思い出した 自然に小走りになっ
 て もとの道を戻った 受付に走りこむと さっき診察をうけたばかりの二代
 目院長がタヌキのように座っている わたしが何もいわないさきから にこに
 こしながら ころころした指で 私の財布を差し出す 「はい これ」 ああ
 医者にしておくには惜しい男だ 深く礼を言い せわしげなふりをして立ち去
 る ゆっくりしていると またウイルスの いや次の戦争が始まりそうだった
 から 微熱は消えていた

 熟れた夕暮れ
 文明の窓々に灯りがともり
 わがアトランティスは
 最後の豪奢に輝いている
 ウイルスは
 どんな文明をも亡ぼすだろうが
 ビールの一杯もつくりだすことはできない
 わたしは ゆっくりと
 いつものバーヘ
 歩きだした





   銅鐸

 明るい丘の斜面から
 掘り起こされた
 ひらべったい鐘のかたち
 びっしりと緑青におおわれ

 呪器か
 楽器か
 いまだ用途不明
 さみどりの謎

 タイムカプセルという一説を
 もっとも愛するわたしだが
 涼しいフォルムなら
 用途は剥がしてしまおう

 青銅時代のあのころ
 鹿が空を飛び魚が林を泳いだころ
 かたや神をつくった人々がいて
 かたや人をつくった神々がいて

 ゆららゆらら
 かげろうたなびく野原
 退屈まぎれに
 綱引きでもしていたかもしれない

 踏んばる足をずりずり引きずり
 手はきりきり火と燃え
 もう どこからが
 人で神で綱で火でかげろうだったろう

 喝采を深く沈めて
 さみどりの器に夕暮れがくる
 あれから人々は戦争にでかけ
 神々は天上にすまいを移し

 かげろうたなびく野原に
 二千年をかけて高層ビルが建つ
 あの日の決着はついていない
 すでに神さえ人さえ夕暮れの時代だが

 博物館を出たわたしも
 いまだ用途不明
 さみどりの仮説
 ゆららゆらら歩く





   それなら

 一葉の写真のなかでわたしが笑っている。窓辺の椅子に腰掛け 浴衣を着て。
 そこは どこなのか。いつのことなのか。誰がこの写真を 撮ったのか。わた
 しには 記憶がない。

 旅と旅のあいだを
 出立していくものがある
 帆もなく すべっていくものがある
 出立にふさわしい藤色の刻である
 野草のような疲れがみえる
 一瞥のまなざしもなく
 一打ちの火もなく
 露のころがる速さで

 送られていくもの

 旅館のようだ。写真の浴衣に目をこらせば 藍色の文字が流れている。水路で
 名高い ある町の名前が ぼんやり読み取れる。けっして行ったことのない町
 である。

 水が鳴る
 水がかたむく
 旅と夜のあいだの
 深いよどみの底

 くぐまるわたしの頭上を
 やわらかに越え
 旅を旅へと押し戻し
 夜を夜へと解き放ち

 それでも還らぬ日々だろう

 笑っている。あんなに愉しそうに笑っている。椅子の横にはタオルが干され
 湯上り姿のわたしは とても若い。そこに誰がいるのか。幸福なのか。にがい
 一葉がこみあげて 夕暮れがわたしの脇をすり抜ける。

 わたしを呼ぶ声がする
 わたしの知らない町で
 水路はいきなり途絶え
 おぼろな風物のあたり
 柳だけが青々とたて傷を揺らしている
 ふたたび

 わたしを呼ぶ声がする
 出立の時がせまっている
 もう旅でも夜でもないというのに

 水路の町から わたしは無事に帰ったのだろうか。今も 笑いながら暮らして
 いるのだろうか。誰かと一緒に。それならいいのだ。それなら。わたしは か
 すかな光とともに ひきだし深く写真をしまう


 

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