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       Collection詩集 U



貞久秀紀
貞久秀紀4































































































































詩集 
石はどこから人であるか

貞久秀紀
思潮社 2001年5

板の一枚に触れようとして、手のことを、人、とよんでやると、私
の先には人がついており、その人は板のところまでのびてこわごわ
触り、我に返ったように戻ってくる。
(「板」より)




  石の発育

 勉強ができるかできないか、というように二つに分けられてみれば、
 私は勉強のできないところにいて、発育していた。木の葉の動きが
 飽かずにながめられてはいても、観察されているということがなか
 った。勉強中机の向きが刻一刻変わるように思われたり、線を引く
 たびに線のひとつひとつが反りかえり、それをいちいち押さえ付け
 て引いているようでは、図の一つも画けないのだった。ときおり、
 私の中から、勉強があらわれてくることがあった。自転車に乗るこ
 とと畳に寝そべることの区別ができないために曖昧な乗り方をする
 友だちが、自転車に乗って遊びにきたとき、乗ることと寝そべるこ
 とがそこでは同時に起きていることがありありとわかり、友だちが
 どこか遠くからやってきた不思議なもののように思われて、私には
 そのとき、勉強がこみあげていた。私はたえず何かにつままれてお
 り、歩こうとしても足が空回りして進まずにいたのが、私をつまん
 でいるものにふと放されてみれば、すたすた歩きだしていた。その
 ようなつままれ方は、話し方にもあらわれ、話をしようにもどこか
 でつままれて宙ぶらりであることがつづき、そのうち急に着地をさ
 せられて、しどろもどろに歩きはじめるので、何を話しているのか
 わからないのだった。歩いているときは足元のなかを歩いているが、
 足元はどこから足元でなくなるかと考えてみるのは、子どもなりに
 おもしろかった。足元というものは、足のまわりの小さなひろがり
 としてありながら、果てなくひろがれば、宇宙大になるような不安
 とよろこびがあり、そのように大きなところで石ころをあれこれ並
 べかえては遊び、おさない知恵をしぼるようなことをしていたが、
 石ころはよくよく考えてみれば、どこかで拾われてきたものがそこ
 に一つあるきりだった。





  石はどこから人であるか

 私から離れているか
 いないかのところに一つ
 ころがっていた
 私はその
 ころがっている方へすいよせられてしまい
 さすってやっていた
 それは婆さんか
 爺さんのようだった
 が
 石ころ
 だった
 さするから石ころである
 けれどさすらなくても石ころである
 私はさすりながらそんなことを思い
 道ばたの
 あかるいところに遊んでいるようだった
 お腹
 ときこえたのでお腹をさすってやったら
 石ころはその
 お腹のあたりからしだいに小さく
 やわらかく
 爺さんか婆さんになってくるようだった
 が
 石ころ
 だった
 私は小さな石ころの
 つやのある丸みにわが身をうつしとらせたい
 と願い
 石ころの前にしゃがんでいた
 けれどそこは前ではなく
 後ろかもしれない
 としきりに思われた





  青葉

 青葉のこんもりしたふくらみに道がすじのように入り、出ていた。
 ひとりの人がうつむきながら歩き、ふくらみに入ってゆくのが遠く、
 小さく見える。山裾についたすじのような道を歩く人は、遠く、米
 粒くらいである。青葉のふくらみに入るとき、その人がふと顔を上
 げると、米粒の一角に光がまぶしくあたり、その中にある目と、私
 の中にある目が、合ったように思われた。私はそれから、じゃこを
 ご飯にふりかけて食べていたときのことを思い出した。じゃこはみ
 なその人くらいに小さく、ご飯にふりかけられてはいても、それぞ
 れ目や鼻や口があり、気が変になったままのような表情をしていた。
 私は、ふりかけられたものが何匹であるのか、それを一匹一匹数え
 かけては思いとどまるようなことをして、ご飯を食べていた。その
 人は、青葉のふくらみをぬけてむこう側へ出てしまうと、そのまま
 道を歩いて、小さくなっていった。ひとつの方向にはあらゆる方向
 がふくまれており、小さくなって遠くきえてしまえば、その人はあ
 らゆるところへ行ってしまった、というふうだった。





  体のさみしさ

  昼――

  山間のちいさな駅舎にいて、放尿している。
 便所はしんとして暗く、便所の中に夜中がある。
 夜中、目がさめて、机に小便をした。父母がおきてきて、そこは
 机ですと、とおしえてくださった。……ということがぼんやり思い
 出されてくる。

  人はみな、便壺をひっそり捨てたなり、どこかへ消えてしまった
 というふうである。
  動いているのは自分の体ばかりだと思われるほどあたりはしんと
 して、股や手足など、身のうごきを一々とりおさえて構えをつくる
 のだったが、便壺に体をあてはめておとなしくしていると、それは
 それですんなり放尿している。
  小窓のむこうの道に石がひとつころがっており、石ころと自分が
 一対一対応の関係にあるのはどうやらまちがいあるまい、と察しを
 つけてそれとなく見ていても、石ころは身じろぎもしない。
  人があらわれてぬかりなく放尿している。
  ……便壺にしてみればそのようなことであろうが、体と便壺には
 とりたてて食いちがいもなく、便壺ひとつをふくめての体一揃いで
 しずしず放尿するうちにその一揃いがひとまわり小さくなっている、
 というふうでさみしい。


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