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       Collection詩集 U


永井ますみ

永井ますみ1


















































































詩集 
ヨシダさんの夜

永井ますみ
土曜美術社出版販売 200211

有名な人はその生や死を語られる事があるかも知れないけれど
私たち庶民が死んだら何が残るのだろう。… …このように生きた、
このように死んだ。その人たちの代わりに声を残しておきたい、と
(あとがきより)
 



 

   義足

 
男は最近不機嫌だ
 会社のシステムも地所も乗っ取られそうだと嘆く
 娘がしょうもない男にひっかかってなぁ
 賭事に負けては金をせびりにくるんや
 三億七千万円
 どんな働きで作ったと思う
 それがただ同然にやで

 父の外出を禁止して頂けませんか
 父は帰ってくると杖を振り回します
 できあがった惣菜の鍋に義足を突っ込んで暴れます
 どうか先生 看護婦さん

 一代で築いた資産
 その為に犠牲にした多くの時間や労りや笑顔
 その犠牲に応えるかたちで働いてきましたか
 なんて聞けない
 私自身はこうやって夜の淵を歩いているのだから

 ベッドのそばに設置した
 白く浮き上がったポータブルトイレの前に
 今辿り着いたばかりという風情で
 義足が片足立っている





   くどき文句

 
あなたの
 手も足もこわばり始めて
 伸ばすと痛い
 痛い痛い痛い
 首のうしろから肩へ私の左手を廻して
 おむつを当てたお尻を抱えるように右手をさしいれる
 そっと手前に引いて
 ころりと向きを変える時
 私も一緒に唱える
 痛い痛い痛い

 飲み込む事を忘れてしまったあなたの
 鼻からチューブが入っていて
 ビン入りの食料が流し込まれる
 ベッドの背中をしっかり起こして
 液体の温度を確かめて
 せめて おなかの充満した幸せ感がありますように

 膀胱にもチューブが入っている
 動かないあなたの
 床ずれの発生を遅くさせる次善の策です
 嫌ならいつでも抜きますよ

 眼を醒ましなさい
 あの世のドアは妙な形で閉じたのです
 鼻のチューブをひっこ抜いても死ぬことはできないし
 あなたはまだ若い
 髪がこんなにふさふさと黒くて
 使わない脚がひん曲がったままでも
 あと十年は生き続ける

 声に出して
 声に出して
 痛い痛い痛い
 どうしたらいいの
 そこから始まる道もあるから
 きっとあるから





   ヨシダさんの夜

 
空が焼けて
 まんまるい太陽がおっこちていく
 空がしぼんでくる
 ながいながい夜がたちこめる
 ヨシダさんの頭のなかには
 私の知ることのできない八十年の夜が詰まっているけれど
 この頃
 時々 反転する

 文庫本の推理小説に熱中していた時は
  みなさん
  わたしはころされます
  たすけてください
 叫び続けて
 注射で眠らされたこともあったっけ

 ヨシダさんは今夜
 ほどけないように固く結んだ着物の紐をほどく
 夜用に分厚くあてた おむつを外す
 ほそい肩
 あばらの浮き出た胸
 触れてほしいの 淋しいから
 肩から胸
 脇腹
 私がさわってあげる
 首の後ろに手を差し入れて
 ほっぺとほっぺを ぎゅっと ね

 ヨシダさんは手を合わせる
 歯の抜けた口をぽっかりあけて
 にっこり笑ってうなずく
 ありがとう
 今日はよく眠れますわ
 ヨシダさんの夜が
 たくさんの夜のなかに紛れ込む


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