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Collection詩集 U


木村透子
木村透子1


































































詩集 
メテオ

木村透子
ふらんす堂 2004年5月

 私たちが生きている一秒は、前の一秒とも次の一秒とも
同じではない。そう考えるとき、今この瞬間に私の感覚が
体験しているものを記しておきたいと切に思いました。
(帯文より)



 

  四月――新緑注意報

 
(なま)な緑が
 地面からじわじわと滲み出し
 大気から泡立ち噴き出してくる
 明るすぎる光に閉じた瞼の隙間から
 深呼吸した鼻孔から
 うっかり笑った口から
 緑が体のなかに侵入して
 内臓や脳髄を通り抜けるうちに
 ことごとく生気を吸ってしまう
 やがてその生気だけが体を抜け出して
――

 
ほら!
 町は抜け殻となった緑の透明人間の群れ
 陽炎のようにゆらめいて

 恐ろしい季節
 人間がこの地球
(ほし)で幻でしかないと気づくのは





  八月
――海風予報

   女はバスを降りた
   <不在>を詰めた小さなスーツケースを下げて

 わたしはいつも発つことを考えている
 海からの風が吹く場所へ

 都市のはずれの港町
 町はずれの新興住宅街
 開墾のブルドーザーの先に取り残された木造二階建て
 アパート
 潮風が階段を錆びつかせ
 赤い造成地のむこうに動かない海が広がる
 そんな部屋が見つかったら
 そこにしばらくとどまることにしよう

 西陽の最後の一筋が床にうっすらと積もった塵をきら
 めかせながら消えていく
 何も持たないことの
 何も待たないことの
 代償

 風がわたしの中をぼうぼうと吹き抜け
 からだの中がからっぽになっていく





  九月
――鉱物研究所

 
鉱物研究所は青空に向かって立っていた
 
  ガラス戸棚のなか
 
  しんとした午後の光を吸い込んで
 
  鉱物の標本がわたしを待っていた
 
  十億年の霧の彼方からやってきて

 希土類 レア・アース
 鉱物中から一団となって発見される原子記号2139
 57から71までの十七の元素は
 他の重い元素と同じに
 宇宙で生れた

 二学期がはじまって間もない日の階段教室
 学生たちが惑星のようにまばらに座っている
 窓外の花壇で黄色のバラがしきりに風に揺れていた
 明るすぎる教室で
 教師の声が意味や質感を失い
 光の粒子となってただよいはじめる

  ランタン
  セリウム
  プロメチウム
  サマリウム
  ユウロビウム
  ……
  エルビウム
  イッテルビウム
  ルテチウム

 神話の女神たちのように美しい名前

 九月の空
 女神たちがすずやかに舞い降りてくる





  十二月――赤のラビリンス

   <眠ってはいけない まだ…

 眠りの淵から一気にひき上げられるように目を開くと
 夜の隙間から赤い舌が覗いている
 舌はわたしが気づいたことに気づいたのか 薄暗い入
 口で無関心を装ってでろりと床に伸びたまま じっと
 動かない
 舌もわたしも 息を殺すようにして それ以上空間を
 埋めようとはしない
 しゅうしゅうという 舌の囁く声だろうか呼吸音なの
 か 静かな規則的な音が再び眠りを誘う
 首の芯から眠気が立ち上がってきて 意識をさらって
 いく
 わたしの体は水の中のように軽くなって…

 赤い舌が 抵抗しないと知ったのか わたしの脳葉の

 中にするすると伸びてきた気配
 生温かい肉の触れるところ 記憶や幻想や言葉の一つ一
 つがめくられて 時間がばらばらにほどかれていく

   <わたしは空港のロビーにいて 飛び立つ時を待っ
   ているらしい
   <どこかの町の建物のなか 重厚なゴブラン織のカ
   ーテンが片側の窓一面に掛かり 深紅の絨毯が敷
   かれた階段を わたしは急ぎ足で降りている

 わたしがわたしであるところの束縛が解かれ わたしは
 誰でもなく 誰でもあり
 どこにもいなく どこにでもいる

   <でも どこなのだろう…
   なぜ急ぐのだ…

 とき放たれた意識の断片が自在に飛びまわり 未知の
 細部が露にされていく

   <誰かと一緒だった よく知っている誰かと…

 胸騒ぎに似た感情がわたしのなかでもやもやと揺れる
 何かは起こってしまったという痛みが 意味を失った
 まま虚ろに残る

 わたしが求めるように赤い舌に触れようとすると 舌
 の動きが鈍りはじめた
 ざらりとした質感さえ頼りなくなっていく

 するすると首の背後を降りていき ドアの隙間に向か
 って退散していく

 このまま覚醒と眠りのあわいをさまよっていたい
 濃くなっていく眠気の底辺を ひんやりした理性が
 流れていることに気づく
 わたしは誰であるかを知らなくてはならないのだ
 記憶の迷宮は 夢を呑み込んでなお深まり続ける
 あの舌は 一瞬のうちにわたしの未来の出来事を見通
 してしまったのだろうか

 灰色の冷気が暁へと引き渡される時間のなかで
 わたしはぐったりと夜を吸い込んで重くなる

 わたしはここにいる
 どこへも行けずに
 ここでようやく眠ろうとしている

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