◇お断り◇表記できない漢字は別の漢字に置き換え、また、ルビは()で表示しています

       Collection詩集 U


三井喬子

三井喬子


















































































詩集 
青天の向こうがわ

三井喬子
思潮社 2009年9月
第12回小野十三郎賞

黒猫に聞いてよ。臭い口をしているから、何でも知っていると思うわ。

 黒猫は臭い息を吹きかけて
 長い尻尾をおったてて
   あら 行っちゃった     (「大麦の実る頃」より)




   鳥のいる風景

 雪原に脚が二本出ている。
 さかさまに埋まっていた時間がズボンをたくし上げ
 否 下げ
  濡らしている
  乾かしている
  繰り返し。

 カラスが群がっている。
 雪の面を蹴散らしている時間が脚をむくませ
 否 細くし
  つついている
  裂いている
  無意味に至るまで。

 雪がとけつつある。
 まだらに白い草原は 時間を緩くたわませていて
  地面に布切れが散乱している
  想像力は歌わず
  物語はいまだ誕生せず
  ただ
  青草の上に布切れがへばりついている。


 誰だ いま叫んだのは!





   

 空から傘が落ちてくる
 取っ手に白いものをぶら下げて。
 あれは手紙だと人は言い
 運命だと もう一人が言う。

 さびしい魂なのだと わたしは思うが
 傘は くるくる
 くるくる くるくる 落ちてくる。






   憧憬――

 
青天の向こうがわには薄紫の花が咲いている
 と 青天は声を嗄らして言ったのだが
 見えない世界はやはり遠いのかもしれない
 午後の山並みは沈みがち。

 丘は 青色のグラデーションでうすく繋がり
 歩いても 歩いても 青天に浮かぶことはない。
 誰もが そう誰もが一度は歩いてみたものだった。
 でも必ず太陽に追い越された。
 沈もうとするその先も青天だったが
 向こうがわは ますます遠かった。

 薄紫のその花を見たことがない
 老いた歩行者が言った。
 青天の奥に 本当に花は咲いているだろうか。
 そんな筈ないさ
 と路傍で寝そべる若い男。
 その者は 堕落した誰某
(だれそれ)であり
 恥ずべき何某
(なにがし)である。
 牛より多くよだれを垂らし
 うさぎのように排泄するものである
 蛇たちに絡まれて縊死する運命。

 青天の向こうがわには薄紫の花が咲いている
 そのような 信じねばならぬ虚言
(そらごと)もある。
 それが定めなのだと思われたが
 愛しくも雲ひとつない青天よ
 定めはなぜ存在するのだろうか。
 光が在って影は出来
(しゅったい)した
 美の観念の中に醜が胚芽された
 長さの知覚に短かさが付帯した
 そうではなかったか青天よ…
 くれなずむ背後から 深い声が聞こえる
 触れ得ない肌は絶望を呼ぶのだと。

 はるかな青天のその向こうに
 薄紫の花が一面に咲いているという
 ただ青天の向こうがわにのみ。
 それを聞いて さみしい女は首を括り
 老いた男は崖を飛んだ。
 薄紫の痛々しいほど柔らかな幸福の 影身として。


 ある日 時が来て
 かの若い男が絞首刑の高い台に上った。
 青天の向こうがわには薄紫の花が咲いているだろうかと
 黒い袋を被せられながら うっすらと考えた。
 葉は本当にあめ色か
 ゆらゆらと風に身をまかせて揺れているのか。
 だが 実際には
 堕落者! とばかり聞こえるのだった。
 首にロープを括りつけて
 高く 飛べ!
 飛べ 堕落者!

 まず無垢のものがある。
 結果 罪あるものがある。
 静かに生への愛執を断ち切れば
 ロープで切断された首が 落ちた身体を笑う
 それを見て笑う者もいて
 実に喜劇の種は尽きることがない。
 青天の向こうがわには高貴な薄紫の花が咲いているというが
 この世は堕落者の排泄物のにおいがする。
 高貴な薄紫の花の射影としてあるのだ。
 墜ちよ墜ちよ 堕落者 墜ちよ
 と 繰り返し囁く。

 不可侵の野に
 いやましに照る 聖なる花よ!

 indexnext 三井喬子2