◇お断り◇表記できない漢字は別の漢字に置き換え、また、ルビは()で表示しています

       
         

Collection詩集 U


柴田三吉


















































































詩集 
角度

柴田三吉
ジャンクション・ハーベスト 20146

48回日本詩人クラブ賞



ふたたび言葉が消え去る前に、私の指、私の文字で、
これを書き写さなければならないらしい。

  (「三角フラスコ 増える水」より)

 

  雨はすでに

雨はすでに濡れているのだろうか
雨はすでに濡れている
だれかの肩を濡らすまえに

ならば涙もすでに
濡れているのだろうか
涙もすでに濡れている
ひと粒の滴になるまえ 瞼の奥で

きのう泣きながら雨の中を歩いたから知っている
どんな絵具で描いても
その小さな粒は乾かない

でも世界もまたすでに濡れているんだね

いや世界は乾いている
悲しみであふれているのにぱさぱさだ
どれほど雨が降っても
涙が流されても

だから雨はすでに濡れている
涙もすでに濡れている





  

こわれたオルゴールを拾った

くりの木の箱は底が抜け
ゆるんだネジ一本で
シリンダーがぶら下がっている

錆びた釘で泥を落とし
クランクをまわしてみる
ぎこちなく櫛をはじく
残された突起

ようやく聴きとれる旋律は
数小節の ノクターン

そうか 共鳴板が必要なんだ

薄いガラスの上に置けば
薄いガラスの響き
青い陶器の上に置けば
青い陶器の響き

ひとの胸に重ねたら
ひとの心の響きがするだろうか

縮んだ世界を広げる音
音は カモメたちとともに飛び立ち
あらたな空を生み出すらしい

捨てられず
ポケットに入れて持ち歩く
わたしたちの
ちいさな詩のように






  角度

ほの暗い裸電球の下、北方の、石斧に似た半島を起点と
し、ボールペンを南下させていく。かたわらの地図を見
やり、フリーハンドでまっ白な紙に、おぼつかない線を
引いていく。複雑に浸食された海岸。連続する突起に抱
かれた湾。座礁をくり返し、なおも無数の入江を越えて
いくと、とつぜん海と和解したような、なだらかな海岸
線がはじまる。

このなだらかさが無防備だった。インクはかすれ、にじ
み、蛍光色となって光りはじめる。海にも陸にも回避で
きず、震える手をなだめつつ、さらに海岸を南下する。
その一点で爪は熱を帯び、鉛のようにとけてくる。強い

めまいに耐え、身をかがめて隘路を脱出。ようやく見知
った半島をまわり込み、電光あふれる湾を遡行し、川を
遡行し、わが家へとたどり着く。

指を洗う。変形した爪をいたわりながら、かたわらの地

図帳と比べてみれば、稚拙さは一目瞭然。呆然とする。
瞼をこずり、あらたに兆す恐怖をぬぐい、ふたたび北方
の石斧を起点として南下していく。目をつぶったままで
も描けるよう、細部を焼きつけるのだが、ふと気づく。
この地図はすでに太古に属すもの、あの日の背後に退い
てしまったのだと。

ぐずぐずの海岸線に目をこらせば、いまも無人の街がう
ずくまっている。陥没した同心円の中心。負の心臓が私
を呼んでいる。いつの日か、このひび割れた大地に指を
差し込まなければと思うのだが、問題はその角度。浅く
ても深くても、人の場所にはたどり着けないだろう。わ
ずかに開かれた角度を探しあぐね、きょうもわたしは、
いたずらに紙を反故にしている。





 草原

吹いてくるのではない あとからくるものに押さ
れてくるのだ 吹いていくのではない まえをい
くものに引かれていくのだ。うしろがなくなるま
で まえがなくなるまで。けれど それはまえに
あるものを押し うしろにあるものを引いている
と思っている。

ある日 袋小路に迷い込む。いくものがなくなり
くるものがなくなり 世界はしずかに動きをとめ
る。そこではもうなにもうまれない。名前をうし
なったものたちは笑わない。泣きもしない。しん
と消え入りそうな息のなか だれかがふいに思い
だす。かつて旅立った草原のこと すべてが生じ
た混沌の場所。わたしらはあそこで 小さな渦か
らはじまったのだったと。

遠すぎて思いだせない。そこへはもう帰れない。
だれもがため息をつくなか はじめのだれかがヤ
ブガラシのねじれた蔓を指さした。渦ならここに
もある。あそこにもある。ここでもあそこでも生
まれるなら わたしらももういちど 手をつない
でまわってみればいい。あるものとないものがま
じりあい くるくる溶けあって ほら 世界はど
こからでもはじめられるよ。




 indexbacknext 柴田三吉3