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Collection詩集 U        



倉橋健一
倉橋健一


















































































詩集 
化身

倉橋健一
思潮社 20067
31回地球賞

私は三面記事から詩を書きたいと思ってきた。… …
現在の世界のさまざまな低
(ひく)みへ、私なりに立ってみたかったと
いう程度が、正直なところだろう。(あとがきより)


 

 

   草原にて

 
小さな群れのなかから
 ひとりの若者が立ちあがると
 とうとう別れの日がやってきた
 トウモロコシとでんぷん性球根と硬バナナしか口にしたことがないというのに
 若者はすらりと鮮
(あざ)やぐ黒い肌をもっている
 さようなら
 振りむかなかった
 おそらくは感傷とたくみに吊り合った傲慢が
 振りむくことを
 断念させたのだ
 あるいは
 一刻もはやく
 地平線を越えて
 見えざる人になってしまいたかったのかも
 やがてみんなは
 陽炎
(かげろう)の地平に溶けてゆく
 若者の後姿を見納
(みおさ)めた

 こんなふうに
 ひとりの若者は遠ざかり
 見たこともないかなたとこちらがわとのあいだには
 触れ合うことのできない境界線
(ボーダーライン)ができあがった
 境界線のむこうがわで彼がどのような存在になっていったか
 村長
(むらおさ)は神託をえて
 食べられながらも生き続ける通力者になったといい
 聞いたみんなは
 濃い茂みを背景に
 長いツノ、たくましい首で群れの先頭に立つ
 一頭のオスのセーブル
(黒羚羊)を夢想した
 鋼鉄のバネを秘めた筋肉質の肉食獣にも雄叫
(おたけ)びをあげて立ちむかう
 敏捷果敢な一頭の草食有蹄獣を
 来る日も来る日も
 思い続けたのだった





  倒れゆく赤ちゃん

 空っぽの哺乳びん
 散乱したコンビニの袋
 汚れたシーツ汚れたまんまの紙オムツ
 アタマを押しつける人
 水びたしにされているの
 毛むくじゃらの手で
 柔肌にはもう寸鉄の光沢もない
 泣きごえもつかい果たした
 なにもかも終わってしまった
 掬いとられる金魚ほどにも騒がないで
 ママン あなたの手はどこにあるの
 あなたも生れたときからぶたれたの
 沈められたとも聞かないで
 今日も枯木が倒れるように
 日が昏
(く)れている

 
ママンの手が暮色に包まれている
 毛むくじゃらの手が暮色のあいだを伝っている
 怖い夜がはじまっている
 助けにくる人はいない
 ママン
 地の底から
 虫の吐息 ぼくの吐息





  溜まり色
 
 風が吹いている
 止
(や)んでも縹色(はなだいろ)のこうもり傘がいっぽん
 白い高層ビルの天辺
(てっぺん)にひっかかって
 余韻のせいで揺れている
 
 見上げる人たちが騒
(ざわ)めいている
 化身したアゲハチョウだという人がいる
 燠
(おき)がこうもり傘のかたちをしているんだという人がいる
 まだ時間はたっぷりあるのに
 どうしてあんなところに舞い上がってしまったんだろう
 と 泪ぐむ人がいる
 おさげ髪のおさなごがひとり
 黙って両手をかざしてひらひらさせた
 くるくる、くるくる、こうもり傘は応えたようだ

 さようなら、時間はまだたっぷりあるのに
 さようなら、
 と見ていた人たちがあいさつを交わしている
 見るためにあつまった人たち
 あつまったから去っている人たち
 こうもり傘は高層ビルの天辺で
 まだ熱心に揺れている
 おさなごも一心に手をかざしている
 まもなく昏れなずむ時刻にくるまれるだろう

 風は止んだままだ
 こうもり傘は縹色のままだ
 かざしたもみじばの手もそのままだ
 そこに溜まり色はできあがる




  十一歳のbirthday
    ―昭和二十年七月十九日、小さいまち福井で空襲にあった

 13
日前には
 空いちめんから襲いかかる
 紅蓮の炎に逃げまどい
 14
日あとには
 聞きとりにくい正午の振幅変調のラジオにあつまっている
 おとなたちの鄙びた背中を遁れて
 ぽつり
 他人の家の縁先で
 ウシアブの羽音を聞いていた
 人影ひとつないのっぺらぼうの
 二つのせまい日付にはさまれた
 わたしの昼下がりの校庭には
 その日
 ひと塊りの向日葵の片隅から
 陽炎がたちのぼり
 生後七日目のセミの鳴き声ばかりがむせ返り
 灼けた鉄棒に近づいたわたしは
 バケツに水を汲んでかけた
 手の逆(さか)上がりからはじめよう
 それも学習のひとつだった
 飛びついて思い切り体
(たい)をひねると
 めくるめくブルーの広大な硬質ガラスが
 ぐらりと揺れて
 傾斜面となって燦然と輝いた
 木造の校舎がいっせいにそこに吸われ
 おののいたわたしはまっくら闇に落ちていった
 冷たい汗が背筋を走り
 なんとか地上に帰還したわたしに
 どれほどの刻
(とき)が流れたか
 気がつくと
 13
日前のグオングオンの轟音がよみがえる
 幼い弟の手を引いて
 濡らした夏ぶとんをひっかぶって
 日ごろ母親にいわれていた
 約束の地へ
 炎に追われる人びとの群れのなかで
 地に伏せ
 踏まれ
 蹴られ
 とにかく
 走りつづけていたのだった


  

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